日頃になく真面目な日記。
2006年4月19日 日常最近、忙しく感じるのは、景気が上向いているからなんだろうか?。確かに、その影響かどうかは分からないが、日々の仕事や行事が増えたようで、気が休まらない。気が休まらないから落ち着かない。落ち着かないから日記が書けない。悪循環だが、ある意味では緊張感があって充実している。願わくば、忙しいなら実入りが多くあって欲しいと思うが、そう行かないところが娑婆世界の厳しいところか?。ただ、実入りがあっても、怒濤のごとく両手からこぼれ落ちていく。決して無駄遣いしているからだという訳でもない。色んな料金が値上がりしているから、それも一つの要因か?。
景気が落ち込んでいたときは、企業も人も設備投資や消費をひかえていた。企業は生き残り策として、リストラを断行した。企業はなんとか生き残ったが、職を失った中高年世代は未だ路頭に迷っている。反面、若い人たちは一定の職に就かず、ニートと呼ばれる立場に身を投じ、巷にあふれた。
そういう社会現象が当たり前のようになった今日、新たに、二極分化とか、格差社会の到来・広がりとかいう言葉が聞かれるようになった。政治の世界でも、マスコミの中でも、毎日のように報じられている。
一昔、高度成長の日本社会では、日本人は総じて中流意識をもっていた。皆が皆それを自負いしていた。いまや違う。上流階層と中流以下の階層に二極分化が進行し、豊かな者はさらに豊かになり、そうでない者との格差がますます開いていくと言う。
どうも、僕は経済的側面のみを重視した二極分化とか、格差社会とかいう言葉は好きでない。良い意味で使われる言葉なら歓迎だが、差別化を助長するような意味使われるとすれば、全くばかげている。日頃は、ことあるごとに差別用語として、いろんな言葉が非難を浴びるのに、こういう言葉は堂々と世相を反映する言葉としてまかり通るからおかしい。よく考えてみると、格差社会という言葉も人間を対象として使われるのなら差別用語だろう。ただ、特定の人でなく漠然とした大衆をさしての言葉だから許せるというわけか?。
又、社会現象として、ニートと称される、職に就かない若い人たちのことが、よく話題にあがる。悪く言えば失業率を押し上げる存在であるし、良く言えば、自由奔放で快活に生きている人たちと言えよう。働き蜂だった中高年世代にとっては、ニートという存在はうらやましくもある。確かに幾分かは親のすねをかじるのかもしれないが、彼らは彼らなりに自分探しの旅をしている。僕らの世代は自分探しの旅が出来なかった。ひたすらレールに乗っかっていくことが幸せの近道だと言われ続けてきたからだ。
企業が永遠に存続・発展しないことを知ったとき、終身雇用の制度が崩れたとき、人は愛社精神とか帰属意識を喪失した。「俺の半生はは何だったのか?」と自問自答し始めた。かくして、どこかで、見切りをつけて野にくだる事を決心した。新たな道を模索し始めた。ニート達のように・・・。
その顕著な例が、退職したら田舎へ居を構え、自然と共に余生を送りたいと思っている中高年かもしれない。自由奔放に生きてこれなかった過去を捨てる。「退職金と年金があるから、何とかなるさと言うことだろう。汗して田畑を耕す。熟年離婚とならなかった女房共々に。なんだか光景が目に浮かぶようだ。こうなりゃ、格差社会も、二極分化もあったものではない。上流意識に奔走するよりは、貧しくとも精神的豊かさの中で、自由奔放に生きた方が良いかもしれない。そいう意味では、ニートと呼ばれる人たちは、回り道をしながらも自由奔放に生きている。若さがあるから良い。恐らく将来はそう言う人たちが担うことになるだろう。温かく見守ってあげたい気がする。
政治や行政は、ニートと呼ばれる人たちに援助の手をさしのべようとする。ベンチャービジネスの支援、企業設立の支援。これらは確かに良いことだと思う。既成の枠に組み込まれるのではなく、自由な発想で、回り道しながらも何かを切り開いていく機会を与える。今、大人に求められていることは、そういう人たちへ、健全な方向性を示してやることかもしれない。色んな法律を作って、がんじがらめに縛り付けることは正しい方向性ではない。「道は開かれている。どんどん進みなはれ」と、エールを贈りたい。ただ、思いやりという心の豊かさだけは忘れないで欲しい。
今日は日頃になくまじめなことを書いたようだ。遺言らしき言葉になったが、そうではない。僕自身への戒めの言葉である。なぜならば、僕もまだ若いからだ。
景気が落ち込んでいたときは、企業も人も設備投資や消費をひかえていた。企業は生き残り策として、リストラを断行した。企業はなんとか生き残ったが、職を失った中高年世代は未だ路頭に迷っている。反面、若い人たちは一定の職に就かず、ニートと呼ばれる立場に身を投じ、巷にあふれた。
そういう社会現象が当たり前のようになった今日、新たに、二極分化とか、格差社会の到来・広がりとかいう言葉が聞かれるようになった。政治の世界でも、マスコミの中でも、毎日のように報じられている。
一昔、高度成長の日本社会では、日本人は総じて中流意識をもっていた。皆が皆それを自負いしていた。いまや違う。上流階層と中流以下の階層に二極分化が進行し、豊かな者はさらに豊かになり、そうでない者との格差がますます開いていくと言う。
どうも、僕は経済的側面のみを重視した二極分化とか、格差社会とかいう言葉は好きでない。良い意味で使われる言葉なら歓迎だが、差別化を助長するような意味使われるとすれば、全くばかげている。日頃は、ことあるごとに差別用語として、いろんな言葉が非難を浴びるのに、こういう言葉は堂々と世相を反映する言葉としてまかり通るからおかしい。よく考えてみると、格差社会という言葉も人間を対象として使われるのなら差別用語だろう。ただ、特定の人でなく漠然とした大衆をさしての言葉だから許せるというわけか?。
又、社会現象として、ニートと称される、職に就かない若い人たちのことが、よく話題にあがる。悪く言えば失業率を押し上げる存在であるし、良く言えば、自由奔放で快活に生きている人たちと言えよう。働き蜂だった中高年世代にとっては、ニートという存在はうらやましくもある。確かに幾分かは親のすねをかじるのかもしれないが、彼らは彼らなりに自分探しの旅をしている。僕らの世代は自分探しの旅が出来なかった。ひたすらレールに乗っかっていくことが幸せの近道だと言われ続けてきたからだ。
企業が永遠に存続・発展しないことを知ったとき、終身雇用の制度が崩れたとき、人は愛社精神とか帰属意識を喪失した。「俺の半生はは何だったのか?」と自問自答し始めた。かくして、どこかで、見切りをつけて野にくだる事を決心した。新たな道を模索し始めた。ニート達のように・・・。
その顕著な例が、退職したら田舎へ居を構え、自然と共に余生を送りたいと思っている中高年かもしれない。自由奔放に生きてこれなかった過去を捨てる。「退職金と年金があるから、何とかなるさと言うことだろう。汗して田畑を耕す。熟年離婚とならなかった女房共々に。なんだか光景が目に浮かぶようだ。こうなりゃ、格差社会も、二極分化もあったものではない。上流意識に奔走するよりは、貧しくとも精神的豊かさの中で、自由奔放に生きた方が良いかもしれない。そいう意味では、ニートと呼ばれる人たちは、回り道をしながらも自由奔放に生きている。若さがあるから良い。恐らく将来はそう言う人たちが担うことになるだろう。温かく見守ってあげたい気がする。
政治や行政は、ニートと呼ばれる人たちに援助の手をさしのべようとする。ベンチャービジネスの支援、企業設立の支援。これらは確かに良いことだと思う。既成の枠に組み込まれるのではなく、自由な発想で、回り道しながらも何かを切り開いていく機会を与える。今、大人に求められていることは、そういう人たちへ、健全な方向性を示してやることかもしれない。色んな法律を作って、がんじがらめに縛り付けることは正しい方向性ではない。「道は開かれている。どんどん進みなはれ」と、エールを贈りたい。ただ、思いやりという心の豊かさだけは忘れないで欲しい。
今日は日頃になくまじめなことを書いたようだ。遺言らしき言葉になったが、そうではない。僕自身への戒めの言葉である。なぜならば、僕もまだ若いからだ。
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