今日は久しぶりにボスの病気見舞い行こうと思っている。盆前に行ったきりだから、ほぼ一ヶ月近くになる。ボスは昨年秋、入院し、今年の正月に退院したが、再入院となり今日に至っている。その間、生死の境を数度さまよった。それでも、いつも見事に復活。その生命力に驚きだ。

確かに、ボスは若い頃、予科練の航空部隊に行っていたらしく、体を鍛えていた。強い生命力を持ってるのはうなずける。ただ、今はずいぶんとやせ細り見る影もないが、ぼけることもなく意識はしっかりしている。僕が行くたびに、再び一緒に仕事が出来ることを楽しみにしているようだ。涙ながらに、「よろしく、よろしく」とつぶやくボスの姿を見ることが僕はつらい。

ボスは退院予定の前夜、決まって体調に変調を来す。うれしさのあまり、興奮するのか、もう大丈夫と自力歩行を試みたり、自力用便を試みようとする。その無理がいけないのだろう。ただ、そうするボスの気持ちが分かる。僕も同じようなことをするかもしれないからだ。今、どんな状態なのか、行ってみないと分からないが、回復途上にあることを願ってやまない。

僕は以前、生と死について考えたことがある。生はともかく、自分がこの世界から消滅する死と言うことについて、どうしても信じられなく、すなおに死を受け入れられなかった。よく、寝床に入り死を回避すべく方法論について考えた。そんな方法があるはずもないが、きっと、宇宙の神秘のなかにその方法があるに違いないと思いこんだ。宇宙人がいて、不死の方法を僕に伝授してくれるかもしれない。そうなるためには宇宙についてもっと勉強し、何か発見できることはないかと真剣に考えたものだ。今でも時々考えている。

ある時、本屋で一冊の本を立ち読みした。死についての記述があった。いやああ、目から鱗が落ちるような気がした。「人が死を恐れるのは人の死をあまねく見ているからである。人の死を自分と重ね合わせて考えるからだ。何も心配することはない。自分が死ぬときはすでに自分に意識がなく、いつ死んだのかさえ分からない。ただ、その時まで懸命に生きていれば良いだけのこと。ただそれだけのことだ。寝ているときすでに死んでいるかもしれない。従って日々に死を恐れる必要もない。生きることのみ考えていればいい」

確か、そんな事が書いてあったように思う。なるほど、人の死を見ているから自分の死と重ね合わせて怖くなるわけだ。要するに死を忘れて懸命に生きることに専念していればよいといわけか。今は、そう思うようにしている。
だから、労働にいそしみ、遊びに熱中する自分の姿があるのだろう。

おっと、ボスの見舞いに赴く時間がきた。

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