四十四歳で亡くなった知人の葬儀に参列した。すでに妻とは別れていたので、父母と三人の子供の父親だった。いかなる理由があったかは知らないが、親より先に逝くのはやはり親不孝である。残った三人の子供達は、父親の死をどうとらえたらいいのだろうか?。泣き叫んでいる姿があわれで、僕も涙ぐんでしまった。

家に帰り死について考えた。思えば今日まで、祖父母、父、叔父、叔母といった身内をはじめ、何人もの友人、知人達と別れてきた。その都度、死は悲しくはあるが、「時」が何とか解決してくれたように思う。今では機会がある時に墓参するか、何かの行事、たとえば、お彼岸やお盆、正月、供養などで、思いを馳せるのみとなった。

「時」が解決してくれたと書いたが、その理由は至って明瞭。人の死は受け入れられても、自分の死については想定外だからである。自分の死については、何かがあるまで、はるか遠くに存在するものとして記憶の彼方へと追いやっている。それはそれでいい。ただ、時として、自分の死を受け入れてしまうことがある。自殺はそうなのかもしれない。又、ホスピス病棟にいる人も、自分の死を受け入れていると言えるかもしれない。自分の死を自分で決断する、決定出来ることは幸せなことなんだろうか?。よくは分からない。

叔母がそうだった。ホスピス病棟で、死を目前にしながら、平然と穏やかな顔をしていた。少なくとも死を達観した人のように見えた、車いすに叔母を乗せ散歩したとき、ある水槽の中で泳ぎ回る魚を、じっと見ていた。そんな叔母の姿が焼き付いて離れない。何を思っていたのだろうか?。魚を見るのもこれが最後と思ったのだろうか?。あの魚のように元気だったころの自分を思い出していたのだろうか?。あるいは、やがて迎えるであろう自分の死を悲しく思ったのだろうか?。そのいずれでもあり、いずれでもないかもしれない。

僕自身の事を語れば、つつがなく過ごしてきた若い頃、「死」について、深く考えたことがなかった。大概の若い人たちはそうだろう。いつかしら齢を重ね、体力が低下し、娑婆世界での他人の死が人ごとと思えなくなった時、自分の死について意識するようになった。その感情を一言で表すなら、「恐怖」である。

今、何かを行動し、何かを考えている自分が存在しなくなる事は一体、どういう事なのか?。日々に衰えていく肉体を眺め、悶々と恐怖と戦った。死を否定しようとしても否定出来ない精神活動が一層、死の恐怖を際立たせた。

はからずも、昨日、国際的映画俳優であり、又、霊界の伝道師と自称された丹波哲郎さんが亡くなった。「今頃、霊界の何処をさまよっているのだろう? 」と、ふと気になった。よくよく考えてみると、自分の死ではなく第三者の死であるから、悲しく思え、ショッキングな出来事として映るのだと気付いた。

以前、駅の本屋で買い求めていた養老孟司さんの「死の壁」という本を、改めて読み直した。本の中で養老さんは、「自分の死について延々と悩んでも仕方がない。一人称の死体は自分で見ることが出来ない。考えるべきは二人称の死、三人称の死である。自分の死ではなく周囲の死をどう受け止めるかのほうが意味がある。自分が死んだらどうなるかなんて、口はどこにあるのかみたいなもので、悩む必要はない。死というのは勝手に訪れてくるものであって、自分がどうこうするようなものではない。」と書いておられる。

確かにそうである。寝ているときに死んでいたら、死の恐怖やら、死の克服なんてあったものではない。養老さんはそのことを、「死ぬのが怖いというのは、どこかでそれが存在していると思っている。一人称の死体が存在し、それを見ることが出来るのではと言う誤解に近いものがある。極端に言えば自分にとって死は無いという言い方も出来る」と述べておられる。

この本を読んで少し気が楽になったように思う。要は、死は死に任せて、お迎えが来るまで、日々をすべからく生きることが大事であると言うことだ。

もう一冊の本。柳澤桂子さんの「生きて死ぬ知恵」という本を読み返した。般若心経というお経を科学的に解釈したものである。般若心経の根底をなす「空」と考え方は、まさに、物事を一元的にとらえ、一元的に見るということである。物事を自己と他者というように、二元的にとらえることから、悩みや、欲や執着が生じる。

「原子レベルで宇宙の景色を見たとき、そこにあるのは原子の密度の違いがあるだけ。あなたもありません。わたしもありません。けれどもそれはそこに存在する。物も原子の濃淡でしかないから、それにとらわれることもない。これが宇宙を一元的に見た世界である。一元的な世界こそが真実で、私たちは錯覚を起こしている。宇宙の真実に目覚めた人は物事に執着するということがなくなり、何事も淡々と受け入れることが出来るようになる。これがお釈迦様の悟られたことである」。般若心経を通して、そんな事をこの本で述べられている。

養老孟司さんの言っていることも、柳澤桂子さんの言っていることも、同じことのように思える。他人の死を悲しみ、自分の死を恐れるのはまさに、二元的に物事を考えているからである。他人の死は大いに悲しむがよい。自分の死は淡々と受け入れよう。死とはそういうものかもしれない。(完)

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