「いじめ」の背景にあるもの。
2006年11月4日 日常「いじめ」の背景にあるもの。
朝起きてテレビのスイッチを入れる。画面に映し出されるのは「いじめ問題」ばかりである。昨今、「いじめ」が原因で自殺する小中校生が増えているからだ。「なぜいじめがあるのか?。なぜ、いじめはなくならないのか?。」とか言った問題に、色んな分野の専門家達が答えている。どの意見を聞いても「もっともである」と思うが、問題解決の核心たり得ない。何故なんだろうと思った。
そもそも、生命体は自己と他者を区別し、自己にそぐわない他者を排除するように遺伝子がプログラミングされているように思える。ミクロの世界を見ても、体内仁はいりこんだ異物を排除せんと、色んなバクテリアや酵素が攻撃して、異物をやっつけようとする。身の保全のために、ミクロの世界でははてしない闘争が繰り返されているわけだ。
地球に君臨する最高の生命体である人間の体内でも、もちろん同じ事が行われている。そうは言っても、ミクロの体内でのこと。日頃、そんなことを意識してはいない。
ミクロの世界ではなく、現実の人間の世界を見てみよう。「おぎゃーー」と生まれたとき、赤ちゃんはすぐ母親のおっぱいを探すそうだ、生まれたその瞬間から赤ちゃんは自己と他者を本能的に区別している。成長するに従って、自己と他者という差別化はどんどん進行し、欲や執着心が助長される。
結局、いじめは欲と執着心に裏打ちされた差別化のひとつの現象と言ってもいいかもしれない。人間が本能的に培ってきた物だから、簡単にはなくすことは出来ないだろう。しからば、いじめはそのまま放置しろということなのか?。無関心を装えということなのか?。いや、決してそうではない。
アリストテレスは「人間は社会的動物である」と言った。また、パスカルは「人間は考える葦である」とも言った。社会的で、考える葦であるということは、いじめが善なのか悪なのか、はっきりと理解させることが必要であるということだ。子供達にはおぼろげながら、いじめがいけないことは分かっている。ただ、いけないという認識を本能が超えてしまう。まだ、社会的な存在たりえないのだ。
昔、じいさんやばあさん達から、「悪いことをすると罰・鉢があたるぞ」と言って、じいさんからはげんこつや竹刀、ばあさんからは裁縫用の物差で、何度も「ばしっ」とたたかれた。痛いの何のって・・・・。泣きながら謝ったものだ。今はそういうこともない。又、「悪いことをすると、地獄へ堕ちるぞ。たたりがあるぞ」と脅され、、真剣に怖がったものだ。たたりは七代先までたたられるというから怖い話だ。この頃はそういうことも聞かないし、言わなくなった。じいさんも、ばあさんも優しくなりすぎた。ましてや、父ちゃん、かあちゃんも、そんなことは言わない。社会的存在への一番の近道が閉ざされた。
ある作家が、「最近の宗教は、極楽や救いのことばかり述べて、罰や地獄やたたりの事を言わなくなった。今や人間の奢りや傲慢さに罰が必要なのではないか。恐れる、畏れるという気持ちを、もういっぺん回復する時代にきているのでは」と警告を発している。
確かにそんな気がする。大人も含め、もっと子供らに「いじめは悪である。罰が当たる。たたりがある。地獄へ堕ちる」という恐怖概念を真剣に認識させる必要があるように思える。人間は誰もが平等に社会的存在であると気がついたとき、必ずやいじめはなくなるだろう。
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朝起きてテレビのスイッチを入れる。画面に映し出されるのは「いじめ問題」ばかりである。昨今、「いじめ」が原因で自殺する小中校生が増えているからだ。「なぜいじめがあるのか?。なぜ、いじめはなくならないのか?。」とか言った問題に、色んな分野の専門家達が答えている。どの意見を聞いても「もっともである」と思うが、問題解決の核心たり得ない。何故なんだろうと思った。
そもそも、生命体は自己と他者を区別し、自己にそぐわない他者を排除するように遺伝子がプログラミングされているように思える。ミクロの世界を見ても、体内仁はいりこんだ異物を排除せんと、色んなバクテリアや酵素が攻撃して、異物をやっつけようとする。身の保全のために、ミクロの世界でははてしない闘争が繰り返されているわけだ。
地球に君臨する最高の生命体である人間の体内でも、もちろん同じ事が行われている。そうは言っても、ミクロの体内でのこと。日頃、そんなことを意識してはいない。
ミクロの世界ではなく、現実の人間の世界を見てみよう。「おぎゃーー」と生まれたとき、赤ちゃんはすぐ母親のおっぱいを探すそうだ、生まれたその瞬間から赤ちゃんは自己と他者を本能的に区別している。成長するに従って、自己と他者という差別化はどんどん進行し、欲や執着心が助長される。
結局、いじめは欲と執着心に裏打ちされた差別化のひとつの現象と言ってもいいかもしれない。人間が本能的に培ってきた物だから、簡単にはなくすことは出来ないだろう。しからば、いじめはそのまま放置しろということなのか?。無関心を装えということなのか?。いや、決してそうではない。
アリストテレスは「人間は社会的動物である」と言った。また、パスカルは「人間は考える葦である」とも言った。社会的で、考える葦であるということは、いじめが善なのか悪なのか、はっきりと理解させることが必要であるということだ。子供達にはおぼろげながら、いじめがいけないことは分かっている。ただ、いけないという認識を本能が超えてしまう。まだ、社会的な存在たりえないのだ。
昔、じいさんやばあさん達から、「悪いことをすると罰・鉢があたるぞ」と言って、じいさんからはげんこつや竹刀、ばあさんからは裁縫用の物差で、何度も「ばしっ」とたたかれた。痛いの何のって・・・・。泣きながら謝ったものだ。今はそういうこともない。又、「悪いことをすると、地獄へ堕ちるぞ。たたりがあるぞ」と脅され、、真剣に怖がったものだ。たたりは七代先までたたられるというから怖い話だ。この頃はそういうことも聞かないし、言わなくなった。じいさんも、ばあさんも優しくなりすぎた。ましてや、父ちゃん、かあちゃんも、そんなことは言わない。社会的存在への一番の近道が閉ざされた。
ある作家が、「最近の宗教は、極楽や救いのことばかり述べて、罰や地獄やたたりの事を言わなくなった。今や人間の奢りや傲慢さに罰が必要なのではないか。恐れる、畏れるという気持ちを、もういっぺん回復する時代にきているのでは」と警告を発している。
確かにそんな気がする。大人も含め、もっと子供らに「いじめは悪である。罰が当たる。たたりがある。地獄へ堕ちる」という恐怖概念を真剣に認識させる必要があるように思える。人間は誰もが平等に社会的存在であると気がついたとき、必ずやいじめはなくなるだろう。
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