恩師の古稀によせて。2
2007年8月17日 日常高校の二年間は、時々ハプニングを呈しながら淡々と過ぎた。忍者もどき、かめやん先生も、必殺げんこつ拳をちらつかせてはいたが、鼻息を荒げることもなく職務を全うしていた。
泣いても笑っても避けて通れない卒業の日がやってきた。僕たちは最後の通知表を受け取るべく教室で待機していた。のっそり、のっそりと、忍者もどき、かめやん先生が登場した。さすが、忍者である。表情は授業風景と変わらなかった。幾度となく卒業生を見送ってきた兵だ。涙は禁物である。
例のごとく、天下の宝刀、「げんこ」???じゃなかったか。韻のこもった低音だった。その低音を響かせながら、一人一人の名前が告げられ、通知表が手渡された。僕たちの心境は二言でいえば、「うれしくもあり、こっぱ恥ずかし」である。
かくして、我々は忍者もどき、かめやん先生を母校に残し、三々五々と散っていった。後で聞いた話だが、僕たちのクラスが一番印象に残っていたとのことである。
さもありなん。個性派揃いだからなあーーーー?。
いくつの歳月が流れたのだろう?風のたよりで、先生が無事に定年を迎え、中国へ日本語の講師として赴いたと聞いた。「へーーー、あのかめやんがねーーー」と、一瞬驚いたが、漢詩で愛を告白する先生のこと、中国はまさに相応しい赴任地のように思えた。
そうこうするうち、中国からハガキが届いた。なんと、年賀状だった。しかも届いたのが2月のこと。「何で今頃?」と思ったが、それには理由があるのだろう。中国の正月は2月頃だ。郵便配達屋
さんが気を利かして、中国の正月を基準に配達したわけだ。これは僕の勝手な解釈である。賀状には中国で奮闘している先生の近況が書かれていた。ただただ、すばらしいと思った。
その後は何度も同窓会や同級会を催し、先生と相まみえる機会をもった。もう、五・六年まえになるだろうか?。僕が住む地で、有志一同が集いクラス会をやった。先生を含め7・8名が集まった。
当地でやるからには、僕が幹事。行きつけの小料理屋を貸しきりにして、その夜は祝宴とあいなった。皆、わいわいと楽しんでくれた。先生も幾分か広くなった額に汗をにじませ、嫌いではなさそうな焼酎に舌鼓を打っていた。席がばらばらだったので、それぞれが席を移動しながら積もる話に花を咲かせた。
翌朝は、とある寺で坐禅の体験をすることになった。本堂に坐蒲とかいう尻当てをすいて乗っかり、お釈迦様のように足を組み姿勢を正す。背後から棒(警策とか言う)を持った坊さんが巡回し、姿勢が乱れたり、集中力がなくなったら棒でたたく。自ら頭を下げて、「たたき」を要求することもできる。
な・な・なんと、僕がその「たたき」役になった。ここが幹事の強みか?。僕は一メートル近くはある棒を垂直に持ち、坐っている先生と同級生の背後を、足音を立てずに巡回する。「ピタッ」と先生の背後で歩みを止めた。「げんこつのお返しの日がやってきたぜ。うっしししーーー」と僕の心はほくそ笑んだ。
先生の右肩に棒を当てると、先生は「びくっ」としたように体を硬直させた。硬くなった体が合掌と共に前のめりになった。「今だあ・・・・・っ」と、僕の脳細胞が騒いだ。「ばしーーーーつ」と行きたかった。しかるに、僕の心がそれを制した。「ご老体に(これは失礼な言葉だった)今更、むちを打っても仕方がない。感謝しても感謝したらない恩があるではないか」と心がつぶやいた。「ぱしっ」と、ほどよい音が先生の肩から聞こえた。「終わったぜ・・・・次に行くか」。僕のすり足が有志一同のところへ向かった。先生のたたかれた音に、おびえたのか、打たれまいと姿勢を正し、皆、ぴくりともしていない。
「飛んで火にいる何とかの虫だぜ」と、僕の快感はクライマックスに・・。男性諸氏にはかなり強めに、女性には優しめに、僕の棒が飛んだ。ある男性には肩胛骨に棒が食い込み「ばしっ」ではなく「ごくっ」と鈍い音を立てた。「しまった。失敗したか?」と思えど、後の祭り。別に何の恨みもない。単なるはずみである。
坐禅は憎しみや恨み、迷いとか言った個人の私情をはさみ行うものではない。あくまでも、淡々と、ただひたすらに坐る。それが坐禅の極意であると聞いた。まさに、頭上に落とされる、忍者もどき、かめやん先生の「げんこつ」と似ているではないか。げんこつも坐禅も突き詰めれば同じことである。云十年の歳月をかけてやっと、それが分かった。
かくして忍者かめやん先生が古稀を迎えられた。70年の歳月には、われわれ同級生も知らない色んな紆余屈折があったに違いない。今、こうして先生の古稀お祝いと同時に同級会が行われることは、何にもましてめでたいことである。
後は、次なるお祝い77歳を目指して、忍者かめやん先生ご夫妻のますますの健康と発展を祈願して、お祝いのメッセージとしたい。
最後に、このメッセージはネット上で公開されるので、フィクションの部分があることをお詫びしたい。(完)
泣いても笑っても避けて通れない卒業の日がやってきた。僕たちは最後の通知表を受け取るべく教室で待機していた。のっそり、のっそりと、忍者もどき、かめやん先生が登場した。さすが、忍者である。表情は授業風景と変わらなかった。幾度となく卒業生を見送ってきた兵だ。涙は禁物である。
例のごとく、天下の宝刀、「げんこ」???じゃなかったか。韻のこもった低音だった。その低音を響かせながら、一人一人の名前が告げられ、通知表が手渡された。僕たちの心境は二言でいえば、「うれしくもあり、こっぱ恥ずかし」である。
かくして、我々は忍者もどき、かめやん先生を母校に残し、三々五々と散っていった。後で聞いた話だが、僕たちのクラスが一番印象に残っていたとのことである。
さもありなん。個性派揃いだからなあーーーー?。
いくつの歳月が流れたのだろう?風のたよりで、先生が無事に定年を迎え、中国へ日本語の講師として赴いたと聞いた。「へーーー、あのかめやんがねーーー」と、一瞬驚いたが、漢詩で愛を告白する先生のこと、中国はまさに相応しい赴任地のように思えた。
そうこうするうち、中国からハガキが届いた。なんと、年賀状だった。しかも届いたのが2月のこと。「何で今頃?」と思ったが、それには理由があるのだろう。中国の正月は2月頃だ。郵便配達屋
さんが気を利かして、中国の正月を基準に配達したわけだ。これは僕の勝手な解釈である。賀状には中国で奮闘している先生の近況が書かれていた。ただただ、すばらしいと思った。
その後は何度も同窓会や同級会を催し、先生と相まみえる機会をもった。もう、五・六年まえになるだろうか?。僕が住む地で、有志一同が集いクラス会をやった。先生を含め7・8名が集まった。
当地でやるからには、僕が幹事。行きつけの小料理屋を貸しきりにして、その夜は祝宴とあいなった。皆、わいわいと楽しんでくれた。先生も幾分か広くなった額に汗をにじませ、嫌いではなさそうな焼酎に舌鼓を打っていた。席がばらばらだったので、それぞれが席を移動しながら積もる話に花を咲かせた。
翌朝は、とある寺で坐禅の体験をすることになった。本堂に坐蒲とかいう尻当てをすいて乗っかり、お釈迦様のように足を組み姿勢を正す。背後から棒(警策とか言う)を持った坊さんが巡回し、姿勢が乱れたり、集中力がなくなったら棒でたたく。自ら頭を下げて、「たたき」を要求することもできる。
な・な・なんと、僕がその「たたき」役になった。ここが幹事の強みか?。僕は一メートル近くはある棒を垂直に持ち、坐っている先生と同級生の背後を、足音を立てずに巡回する。「ピタッ」と先生の背後で歩みを止めた。「げんこつのお返しの日がやってきたぜ。うっしししーーー」と僕の心はほくそ笑んだ。
先生の右肩に棒を当てると、先生は「びくっ」としたように体を硬直させた。硬くなった体が合掌と共に前のめりになった。「今だあ・・・・・っ」と、僕の脳細胞が騒いだ。「ばしーーーーつ」と行きたかった。しかるに、僕の心がそれを制した。「ご老体に(これは失礼な言葉だった)今更、むちを打っても仕方がない。感謝しても感謝したらない恩があるではないか」と心がつぶやいた。「ぱしっ」と、ほどよい音が先生の肩から聞こえた。「終わったぜ・・・・次に行くか」。僕のすり足が有志一同のところへ向かった。先生のたたかれた音に、おびえたのか、打たれまいと姿勢を正し、皆、ぴくりともしていない。
「飛んで火にいる何とかの虫だぜ」と、僕の快感はクライマックスに・・。男性諸氏にはかなり強めに、女性には優しめに、僕の棒が飛んだ。ある男性には肩胛骨に棒が食い込み「ばしっ」ではなく「ごくっ」と鈍い音を立てた。「しまった。失敗したか?」と思えど、後の祭り。別に何の恨みもない。単なるはずみである。
坐禅は憎しみや恨み、迷いとか言った個人の私情をはさみ行うものではない。あくまでも、淡々と、ただひたすらに坐る。それが坐禅の極意であると聞いた。まさに、頭上に落とされる、忍者もどき、かめやん先生の「げんこつ」と似ているではないか。げんこつも坐禅も突き詰めれば同じことである。云十年の歳月をかけてやっと、それが分かった。
かくして忍者かめやん先生が古稀を迎えられた。70年の歳月には、われわれ同級生も知らない色んな紆余屈折があったに違いない。今、こうして先生の古稀お祝いと同時に同級会が行われることは、何にもましてめでたいことである。
後は、次なるお祝い77歳を目指して、忍者かめやん先生ご夫妻のますますの健康と発展を祈願して、お祝いのメッセージとしたい。
最後に、このメッセージはネット上で公開されるので、フィクションの部分があることをお詫びしたい。(完)
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