久しぶりに涼しげな朝を迎えた。今日はお彼岸の中日だ。太陽が真東から出て、真西へ沈む。西の彼方には極楽浄土があるという。今日はまさにお彼岸日和。人は墓へ詣でて、先祖様に供物やお花を手向け、極楽浄土での安住を祈願し、今ある自分に感謝し、そして未来の幸せを懇願する。
「祈願、感謝、懇願」、この三つの心の働きがうまく作用しているとき、人は幸せ感を覚えるのだろう。ところで、よく考えてみるとお願いが多い。昔、歌にもあったっけ?。「私の四つのお願い聞いてね・・・」とかなんとかいう歌。幸せを呼ぶとか言う四つ葉のクローバーもある。お願いはちまたにあふれている。
ただ、「お願い」は欲とは違う。欲にはむさぼりが伴いやすいが、お願いにはむさぼり感がない。とは言え、お願いも度が過ぎると禁物だ。かわいい女性からの一つ・二つのお願いなら「はいよーー。喜んで。」と言って、すぐ引き受けるが、度重なってくると、そのかわいい顔さえ醜く思えてくるものだ。人の心って不思議なものよ。
大事なのは、やはり心の働きだろう。お願いに伴うものは、良い表現ではないが、「見返り」だ。見返りと言っても、ビジネス社会での金銭物欲と言った見返りとは違う。日々の個人的な生活の中における見返り。それは心第一と言っても良いかもしれない。
「心」と言えば、ある坊さんの説教で聞いたことがある。
「奇妙なるかな心。不思議なるかな心。この心あって初めて山川草木あり。世にある一切のものはこの心より生じ、この心に帰す。人、いずこより生まれ来たる。すなわちこの心より生まれ来たる。人、死して、いずれのところにか去る。すなわちこの心に帰るなり。我が心を離れて仏なく、仏を離れて我が心なし。」
人が墓前でお参りするのは、色んなお願いや感謝を心の実践で返しているわけだ。意識するとしないとに関わらず、ただ、ひたすら手をあわせる。この行いこそが現世を生きる人たちの一つの救いとなっている。お彼岸につき、宗教的な話になってしまった。
僕は今、どんよりとした曇り空を眺めながら、我が先祖様や、ボスのことに思いを馳せている。ボスはまだ、宇宙空間を魂がさまよっている時期だ。安住の地を得るには、もう少し時間がかかる。遺族や僕がこうして色んな思いでをたどる。その心の思いが、迷わずボスが極楽浄土の地へたどり着く手助けとなる。
ただ、いかんせん。ボスは寄り道が好きだった。あるいは、どこかの宇宙居酒屋でとぐろを巻いて、だだをこねているかもしれない。
僕もそうするかもしれないから、いいか?。
「祈願、感謝、懇願」、この三つの心の働きがうまく作用しているとき、人は幸せ感を覚えるのだろう。ところで、よく考えてみるとお願いが多い。昔、歌にもあったっけ?。「私の四つのお願い聞いてね・・・」とかなんとかいう歌。幸せを呼ぶとか言う四つ葉のクローバーもある。お願いはちまたにあふれている。
ただ、「お願い」は欲とは違う。欲にはむさぼりが伴いやすいが、お願いにはむさぼり感がない。とは言え、お願いも度が過ぎると禁物だ。かわいい女性からの一つ・二つのお願いなら「はいよーー。喜んで。」と言って、すぐ引き受けるが、度重なってくると、そのかわいい顔さえ醜く思えてくるものだ。人の心って不思議なものよ。
大事なのは、やはり心の働きだろう。お願いに伴うものは、良い表現ではないが、「見返り」だ。見返りと言っても、ビジネス社会での金銭物欲と言った見返りとは違う。日々の個人的な生活の中における見返り。それは心第一と言っても良いかもしれない。
「心」と言えば、ある坊さんの説教で聞いたことがある。
「奇妙なるかな心。不思議なるかな心。この心あって初めて山川草木あり。世にある一切のものはこの心より生じ、この心に帰す。人、いずこより生まれ来たる。すなわちこの心より生まれ来たる。人、死して、いずれのところにか去る。すなわちこの心に帰るなり。我が心を離れて仏なく、仏を離れて我が心なし。」
人が墓前でお参りするのは、色んなお願いや感謝を心の実践で返しているわけだ。意識するとしないとに関わらず、ただ、ひたすら手をあわせる。この行いこそが現世を生きる人たちの一つの救いとなっている。お彼岸につき、宗教的な話になってしまった。
僕は今、どんよりとした曇り空を眺めながら、我が先祖様や、ボスのことに思いを馳せている。ボスはまだ、宇宙空間を魂がさまよっている時期だ。安住の地を得るには、もう少し時間がかかる。遺族や僕がこうして色んな思いでをたどる。その心の思いが、迷わずボスが極楽浄土の地へたどり着く手助けとなる。
ただ、いかんせん。ボスは寄り道が好きだった。あるいは、どこかの宇宙居酒屋でとぐろを巻いて、だだをこねているかもしれない。
僕もそうするかもしれないから、いいか?。
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