感動した本。

2007年11月1日 日常
 曇り空ながら気持ちの良い11月1日を迎えた。一が三つそろってぞろ目だ。書類を提出するとき、一を三回書けばよいので楽である。受付嬢に「今日はぞろ目で縁起がいいですね」と言って書類を差し出すと、にこっと笑って、受付印を「ポン」と押してくれた。こころなしか音が大きかったみたいな?・・・・・。

午後、最寄りの駅へ立ち寄った。駅北口の横に設けられている駐車場へ車を滑らした。管理人さんから駐車券をもらう。管理人さんとはすっかり顔なじみで、僕は常連だ。駅構内に出店している店で商品を買い、レシートを見せると駐車料金が一定時間以内なら無料になる。最近は、手に買い物袋を持っているだけで、「はい、どうぞ」とフリーパスみたいになった。これも常連のたまものか?。人とは顔見知りになっておくべきか。

駅へ立ち寄ることに大きな目的はない。あえて、あるとすれば、喫茶店でうまいコーヒーを飲みながら、書類に目を通し、押し忘れの印鑑を押すこと。受付嬢さんみたいに「ポン」と押すわけも行かない。隣の人に見られないように、クライアント名を隠しながら、こそっと、つつましやかに押す。

もうひとつ、目的があるとすれば、喫茶店の横にある本屋に立ち寄ることだ。買いたい本があるわけではない。今日も時間があったので何気なしに寄った。ふと、手に取った一冊の文庫本。「心が大きくなる坐禅のすすめ」という本で中野東禅という人が書いた本である。坐禅かあーーー。「昔やったことがあるぜ。足が痛かったなーー」という思い出がある。その本の最後のほうにおもしろいことが書いてあった。

新しい自分が見つかる「十牛図」と題して、十枚の牛の絵が描かれ、解説がほどこしてあった。「十牛図」は、中国で色んな人が書いている牛の絵だ。なかでも禅僧、郭庵(かくあん)の書いたものが有名で、弟子の慈遠が説明文をつけているそうだ。この十枚の絵は悟りに至る道筋を表しているという。悟りかあーーーーー。僕は神でも仏でもないのに、どうやって悟るんだー?と、いぶかしく思いながらページをめくった。立ち読みしながら思わず引かれてしまった。店員さんに悪いと思い、結局買い求めた。

最初の絵は牧人が牛を探している絵。「尋牛(じんぎゅう)」とあった。この牛は自分自身の心の象徴らしい。要するに自分探しの旅に出かけたと言うことだろう。自分探しかあーーー。俺っていったい何だ?。

二枚目の絵は、牛の足跡を見つけた絵。「見跡(けんせき)」とある。これはやっと、足跡を見つけて、自分探しの方向性が見えてきたということらしい。
ただ、牛はまだ見つかっていない。不安定な状態である。

三枚目の絵は、やっと牛を見つけた。「見牛(けんぎゅう)」とある。牛を見つけたが、頭隠して尻隠さずで、全体が見えない。よくよく見ると、その牛が自分に見えてくる。そこで、気がつく。「本当の自分」は自分自身の中にあると。しかし、まだ全体が見えないから部分にこだわり、善はは善、悪は悪だと原則にとらわれている段階らしい。それでも、ここまでくるには相当の修行がいるようだ。僕などは、牛の尻を見つけ「わおーー、でかい尻だぜ。これで乳がしぼれる」と、目先の利害にとらわれるのが関の山だろう。

四枚目の絵は牛を捕まえる絵。「得牛(とくぎゅう)」とある。牛を捕まえたはよいが、暴れ牛で自由にコントロール出来ない。ロデオみたいなものだ。この時期は自分との葛藤の時期。自分の心をどうコントロールするか。こらずに納得できるまで修行を続けよと言うことらしい。うんん。これは難しい。

五枚目は牛を飼う時期。「牧牛(ぼくぎゅう)」とある。牛がようやくなついた。だが、まだ手綱は離せない。これは自分の心はつかめたが、何かあると、いつも心が揺らいでしまう状態だ。自分を見失なってはいけないと説かれている。

六枚目。牛に乗る絵。「騎牛帰家(きぎゅうきけ)」とある。牛がすっかり飼い慣らされ、手綱を離しても大丈夫な時期。いわゆる、自分の心との闘いが終わり、心が安らかなる状態。本当の自分を求める努力は必要なく、心と悟りが同化した状態とある。「家」というのは、自分が生きていく日常。牛を求める旅は悟りを求める修行であり、非日常であるが、これからは「本当の自分」として日常の中で生きていくことを表している。うんんん、ここまで来るのは至難の業だ。非日常と日常の同化かあーーーー。難しいぜ・・・。

七枚目。牛を忘れる図。「忘牛在人(ぼうぎゅうそんじん)」とある。牛を連れて帰ってきたことを忘れている。ゆったりとくつろいだ状態。悟りを意識すれば迷いにつながり、その意識さえ忘れて「本当の自分」になりきる。禅の境地だ。心に「完全なる静寂」が訪れる。静寂ばかりでは寂しいぜ。その寂しささえ忘れられたら最高だ。忘れることまで忘られたら、さらに最高だ。そうなれば、死ぬしかないか。死んでしまえばもとこうもないぜ。

八枚目。すべてを忘れる。「人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)」とある。この状態は描かれた円。牛も忘れ、牧人も忘れ、修行していた自分も忘れ、悟りを得た自分も忘れ、すべてなくした境地。これが禅の境地の熟成ということらしい。無の心境から空の心境へ。僕の頭では、たた「うんんんん」と、うなるしかない。

九枚目。自然に気づく。「返本還源(へんぽんげんげん)」とある。禅の境地に達した人は美しい自然に気がつく。あるがままの自然。あるがままの自分。あるがままの自己こそが「本当の自分」。自然との一体感の中に、「あたらしい自分」を見いだすとある。自然かあ・・・。自然は大好きなんだが。僕の考えているよこしまな自然とは自然が違うだろう。

最後の十枚目。悟りにいたる。「入てん垂手(にってんすいしゅ)」とある。「てん」は難しい漢字だったのでひらがなで書いた。禅の境地に達した人は人と喜びを分かち合おうとする。また慈悲の心に満ち溢れている。まさに、仙人みたいな人だ。慈悲の心とは人を自分と同様に慈しみ、人の悲しみを自分の悲しみとすること。悟りを求めるとは、幸せな生き方を求めることであり、それは人のために働き、導くことだと仏教は教えていると、この本は説いている。悟りは人から人へ無限の循環を繰り返していくと、この章を結んでいる。

うんんん、結局は坐禅は心を大きくし、坐禅は悟りを開く登竜門なのかもしれない。単細胞な僕でも十牛図に描かれたような修行ができるのだろうか?。いや、まてよ。単細胞なほうがかえっていいのかもしれない。何故なら、なんでも、すぐ忘れてしまうからなあ。無かあーーーーーー。今のところ、僕が悟りを開くのは棺桶に入ってからだろう。(完)
参考書籍  中野東禅著。「心が大きくなる坐禅のすすめ」三笠書房 発行。

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