素晴らしい秋晴れ。人生の幸せと黄昏を感じる。春は春の息吹で生がみなぎる。秋は「秋のヴィオロンのため息のひたぶるにうら悲し」のごとく、ため息が出そうだが、これがまた良い。時の流れに思いを馳せ、ただただ感慨にふける。そんな季節をくれた自然に乾杯だ。

僕は昨日から仕事のしっぱなしだ。善しにつけ悪しきにつけやらなくちゃならないんです。漫談で大笑いさせてくれる綾小路君麻呂さんの言葉にもあったっけ。「僕たちの仕事は呼ばれなければ出来ないんです」と。しかり。僕の仕事も頼まれなければ出来ないんです。「目の前にきれいな人がいようと、そうでない人がいようと、やらなくちゃならないんです。お客様を選べないんです」。しかりだ。報酬が高かろうと、低かろうと、やらなくちゃならないんです。きれいな人からの依頼であろうと、そうでもない人からの依頼であろうと、やらなくちゃならないんです。お客様を選べないんです。うんんん、能力を超える仕事は断っているから、そうでもないか?。

まあ、これは声を荒げて言うことでもない。仕事とはそういうものだ。だからこそ、この秋は我が過去を振り返りつつ、反省したり、ため息をついたりするのに絶好の季節。真夏の炎天下では、反省やため息どころか、「うらみまっせーーーー」という言葉ばかりが頭を駆けめぐる。

こんな秋の良き日には、至る所で催し物が行われている。祭りしかり。骨董市しかり。その他諸々だ。祭りで印象に残っている事と言えば、「ひよこ」を買ったことと、「金魚すくい」に挑戦したことだ。

「ひよこ」はピンクや、緑、黄色で色づけしてあり、見た目にはかわいさが一層、引き立つ。ひょこはただ、「ピーチク、パーチク」と泣き叫び、大きなかごの中で走り回っている。嬉しがっているのか?悲しがっているのか?分からない。いずれにせよ、当のひよこには迷惑なことだろう。僕もそういうことは考えず、母におねだりして買い求めたことがある。庭で四角いゲージの中に入れて飼った。日が経つにつれ、色が本来の鶏の色に変わっていった。ずいぶんと大きくなった頃、ある朝、庭を見ると鶏がいない。抜け出したかな?と思ったがそうでもないようだ。恐らく、蛇かイタチにやられたのだろう。可哀想なことをした。以来、ひよこを飼うことは止めた。

一方、金魚すくいには随分と凝った。大人になってからも挑戦した。いわずもがな、敗北の連続だ。すくう道具には「紙張り」と「最中張り」がある。いずれで、挑戦しても結果は同じ。紙は金魚を追っかけていると、もろくなり、やっと、金魚の下に潜り込んだかと思うと、金魚の重みで紙は無惨な姿。最中も一緒だ。長く水につけていると、「ふにゃふにゃ」になり、用を足さなくなる。頭にはちまきをした出店主は「にやにや」と笑いながら、手本を示してくれる。いとも簡単に、器にすくい上げる。時々思ったものだ。「こりゃーー、出店主が使う紙や最中には、何か仕掛けがあるぞ」って。まさか、そう言うわけにも行かず、何度も挑戦。ことごとく破れ、敗れたのでした。

そこで、反省した。物事にはなんでも、「こつ」がある。その「こつ」をマスターすれば、自ずと道は開かれると。残念ながら未だにその「こつ」を会得するにはいたっていない。おまけで、金魚を数匹くれたので、云千円か出して、水槽を設けたが、延命させるには至らず。今は、特に何も飼っていない。飼っている生き物と言えば、僕になつかない猫くらいだ。

この秋日和、午前中、スリランカで仕事をしている知り合いの夫婦が訪れた。
茶を飲みながら、いろいろと話を聞いていると、あちらでの生活も大変だそうだ。住んでいる近くに日本人がいないから、言葉が分からないこと。内紛がまだ続いていること。また、とても暑いらしい。奥方が、「日本がいちばんいいわ」と、悲しそうに言った。旦那は「まだまだやるでーーー」と、意気込みが感じられ、奥方と対称的だった。いずれにせよ、日本人が国際社会の中で、協力し合って生きていくことは素晴らしいことだ。誰にでも出来ることではない。そう言って二人に励ましのエールを送ったことだ。

かくして、僕は今、静まりかえった外の風景を書斎兼事務室から眺めながら、この備忘録をしたためている。夕方頃から骨董市へ出かけたいと思っている。「あんた、がらくたばかり買わないで」としかられそうだが・・・・。

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