静かな金曜日の朝を迎えた。日射しを浴びて雀が「チュンチュン」鳴いている。日頃は心に留めてもいなかったが、まだ、雀が住む自然があったんだと嬉しく思う。

そう言えば昔は、わんさと雀がいたっけ。子供心に、なんとかあの雀を捕えたいと、小さな罠を仕掛けたことがある。なんの事はない。ただ地面を少し掘って、その中に米粒を入れておく。穴がふさがるような適当なふたを、つっかえ棒で支える。ふたは平べったい石ころでもよいし、雀が穴から逃げ出さない程度の重みがあればよい。雀はえさを求めて、つっかえ棒に触れる。穴が閉じて雀が逃げだせなくなる。定番の罠である。

かくして、罠は完了。罠の存在を忘れ、遊び惚ける。遊び疲れて、ふっと、罠に視線を走らせると、なんと穴がふさがっている。一目散に駆けつけ、穴を確認する。見事にハズレだ。「うんん、失敗だったか?」と、さらなる挑戦。何度もやっている内に、捕獲に成功。鳥かごにいれて飼ったことがある。えさと水を与えていたが、程なく死んでしまった。当時は焼き鳥にして食らうという発想もなく、小さな墓を作って埋めてやった。

以来、雀の捕獲を止めた。「自然に生きるのが、雀も一番、幸せなんだ」と、子供心にも分かったような?分からないような?。その後、鳥を飼ったと言えば鶏くらいだが、その鶏さえ、蛇かイタチにやられた。蛇やイタチも生きていかねばならないから必死である。そんな蛇やイタチを上空から、カラスがねらっている。

まさに、食物連鎖、弱肉強食、自然淘汰だ。かく状況を想定してか、神(自然)は大量生産の方式をあみだし、平均的な数の保存をはかった。しかるに今やその方程式も崩れようとしている。なんとなれば、自然界に君臨してきた人間の飽くなき欲望が、神の領域へ深入りしてしまったからだ。

北極、南極の氷の融解、絶滅種、絶滅危惧種の増加、異常気象・・・・・。すべては神の領域へ踏み込みすぎた人間の欲に起因している。もちろん、そのことによる恩恵も人間は多々受けてきた。「あなたは豊かさと貧困、どちらを選択しますか?」と問われたとき、人間はやはり豊かさを選択するに違いない。

自然界との調和をはかりつつ生きる生き方とはどんな生き方なんだろうと考えてみた。わからない。ただ言葉で言えるとすれば「謙虚な生き方」、「謙虚に生きる」ということなんだろうか?。

最近、ある歴史ドラマを見た。時は群雄割拠の戦国時代。ある男と女が出会い愛し合った。その愛は長く続かなかった。究極の目的は二人とも同じ。「「平和な暮らし」である。だが何故?。男の求める理想と女の求める現実がかみ合わない。いつ殺されるか分からない戦国時代にあって、信じられるのは自分だけ。男の仕事は剣客商売。男は女に問うた。「愛と金、どちらを選ぶ?。愛ならば僕と一緒に、ここを出て静かなところで平和に暮らそう」と。女は言った。「私を愛しているなら、ここで、お金につつまれて楽しく暮らしましょう」と。女は金を選び、男は剣客の道を選んだ。美しい時が短いならば、金をたくさん持ち、きれいな服をまとい、おいしいものを食べたいという女の気持ちも分かるが、男は本来、それだけでは満足できない動物なのだ。

ここで、「謙虚」という言葉が思い当たる。謙虚とは譲り合いであり、方向性を同じくすることでは?。また、慈しみにもつながる。悪く言えば「妥協」と言えないこともない。世の夫婦がうまくいっているように見えるのは、この妥協が少なからずあるからに違いない。自然界との付き合いもそうだ。謙虚さを持って生きるとは、自然界とうまく妥協しながら生きていくことではないのか?。

現代の社会も戦国時代の様相を呈している。群国割拠して、虎視眈々と世界征服をもくろんでいる。そんな中で生きる国民性はまちまちだ。一様に論ぜられない。ただ、日本人に限って言えば、日本男子たる者、今や既に、高い理想を失い、女の尻のみを追っかけ、金に執着する超現実的な男に成り下がったように思える。女は女でそれを後押しするかのように、現実を誘導する。これじゃああ、堕落もしくは退廃としか言いようがない。

男は理想を持ち女は現実に生きても良い。ただ、むさぼらず、互いに歩みより、その中にこそ、愛は育まれ、平和な暮らしは築けるというもの。僕も堕落と退廃を生きる一介の男だ。偉そうなことは言えない。今朝は、雀の鳴き声を聞いて、ふと、自然との共生には謙虚な態度とその実践が必要だと感じたまでである。

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

テーマ別日記一覧

最新のコメント

この日記について

日記内を検索