久しぶりに食べた柿の味。
2007年11月14日 日常 すっかり秋だ。久しぶりに柿を食べた。中にゴマみたいなものがたっぷりと入っている。このゴマ入りがおいしいんだよなあーーー。柿と言えば、小学校時代、友達の家にあった大きな柿の木を思い出す。長い竹竿の先端部分を割り、割ったところに適当な枝を挟む。実がなっている柿の枝に竹を差し込み、くるりと回す。実と共に柿の枝が折れ、地面に落とすことなく柿の捕獲だ。そうやって採った柿を、薄汚れた上着で拭き、皮ごと丸かじりだ。おやつが何もない時代。食べた柿のおいしかったことよ。
よく、友達のの母から言われた。「柿食ったら、すぐ水飲んだらいかんでーーー」と。何のことか よく分からなかったが、僕たちは「合食、合食」と言って、水を避けた。後で気づいたが、柿は結構消化が悪い。まだ完成されていない子供のお腹には柿の不消化は良くない。水で流せばますます不消化である。ポンポンが痛くなるのもうなずける。母親とはありがたいものだ。何かにつけ、教訓を授けながら子供の成長を見守ってくれる。
僕の母は農家出身だった。実家近くの温泉町へ嫁いだ。じいさんが、時々湯治へ来ていた。そんな時、僕を伴って風呂につかったものだ。秋ともなると、渋柿を袋一杯持ってきてくれた。母と僕たち三兄弟は、二階の日当たりの良い縁側で、渋柿の皮むきだ。母は手慣れた様子で、竹のヘラを器用に扱いながらきれいにむいていく。僕たちはそうはいかない。あちこちに でこぼこを残しながら、不器用にむく。母のむく手つきがまさに見本である。そんな母が偉く思えたものだ。
むき終わったら、二個を一組にしてひもで結ぶ。物干し竿へぶら下げて、つるし柿の完成。完成と言っても、食べるまでには相当の日数を要する。僕たちは今や遅しと、日々、変化していくつるし柿を眺めては、唾液を流したことだ。
時々手でつまんで、柿の感触を楽しんだ。つまみ食いするには時期尚早。渋が残っており、「ペッツ」とはき出すのが常だった。
父が存命の頃、言っていた言葉を思い出す。「餅はいやしん坊に焼かせろ」って。何のことかと言えば、いやしん坊は、餅をさわりたがる。従って、よく触っていると、餅が上手に焼けるわけだ。つるし柿も同じようなものだ。よく触ると、形よく出来る。ばい菌も付着するかもしれないが、日光が除菌の役目を果たしてくれる。僕は相当に、いやしん坊だったようだ。餅に限らず、何かにつけ、手を出していたようだ。そんなとき、ばあさまに、火箸で「ばしっ」とやられたことがある。火箸でたたくのは、じいさんや父ではなく、ほとんどがばあさんだ。その理由は不明。
だんだんと柔らかくなっていき、完成品となる頃には、すっかり塩を拭き、あのふくらっした橙色の柿の実が、茶色へ変わる。日光をを浴びて、柿の成分が化学反応をおこし、甘い味へ変身する。自然の力とは偉大である。そんなことは知るよしもなく、正月に柿を食らう。自分たちの手で作ったものはやはりおいしい。兄弟で、それぞれが食った柿の種の数を数え、勝った、負けたで、早々にけんかだ。懐かしく思い出した。
子供の頃は時がゆっくり流れ、今みたいにせわしくなかった。なんでもが興味の対象であり、時を忘れ遊びに惚けた。それが子供である。大人になり、世の中の仕組みが少しばかり理解できるようになった。如実に感じること。世の中が暮らしにくくなったことだ。時を追いかけ、時に追いかけられる。「豊かさ」というスローガンだけが先走り、心がついて行かない。そんな中、責任だけが両肩においかぶさる。特にリーダーたる者の責任は重大である。
最近、テレビでリーダーたる人たちの謝罪会見をよく目にする。「ええつ、またかあーーー。あそこもかあーーー」と目や耳を疑いたくなる。豊かさを生み出す背景には「心の良心」が必要だろう。その良心が欠落すれば社会は欺瞞だらけ。欺瞞に充ち満ちた社会の中で信じられるのは自分だけ。いつ、寝首を欠かれるか分からない。下克上、戦国時代と一緒だ。日本は今、そんな 様相を呈しているように見える。こんな社会が救われるには「心の良心」しかない。
日本、アメリカ、中国、韓国の四カ国で若者にアンケートをとったところ、リーダーになりたいと思う若者の数は、日本が最低だったそうだ。さもありなん。世のリーダー達の情けない姿に、うんざり感で一杯だろう。
また、この頃、少ない子供達が、事件に巻き込まれ、傷つき、命まで落としている。社会や親は、「容易に人を信じるな」と子供達に教える。法律や過保護という高い塀を巡らして、その中で育てようとする。そんな子供達が大人になった時、良い社会が築けているんだろうか?。
僕たちの子供時代が良い社会だったかどうかは分からない。ただ、言えることは一様に貧しかったが、心の良心が伴っていたようには思える。貧しさは心を開き、豊かさは心を閉じるものなんだろうか?。一面ではそう言えるかもしれない。心を閉じた状態が欺瞞を生む。欺瞞は偽りの豊かさを助長させるだけだ。そんな中、子供達は、人を信じて生きれる良心ある社会を構築出来るんだろうか?。じいさん、ばあさん、親はその良き手本であってほしい。
よく、友達のの母から言われた。「柿食ったら、すぐ水飲んだらいかんでーーー」と。何のことか よく分からなかったが、僕たちは「合食、合食」と言って、水を避けた。後で気づいたが、柿は結構消化が悪い。まだ完成されていない子供のお腹には柿の不消化は良くない。水で流せばますます不消化である。ポンポンが痛くなるのもうなずける。母親とはありがたいものだ。何かにつけ、教訓を授けながら子供の成長を見守ってくれる。
僕の母は農家出身だった。実家近くの温泉町へ嫁いだ。じいさんが、時々湯治へ来ていた。そんな時、僕を伴って風呂につかったものだ。秋ともなると、渋柿を袋一杯持ってきてくれた。母と僕たち三兄弟は、二階の日当たりの良い縁側で、渋柿の皮むきだ。母は手慣れた様子で、竹のヘラを器用に扱いながらきれいにむいていく。僕たちはそうはいかない。あちこちに でこぼこを残しながら、不器用にむく。母のむく手つきがまさに見本である。そんな母が偉く思えたものだ。
むき終わったら、二個を一組にしてひもで結ぶ。物干し竿へぶら下げて、つるし柿の完成。完成と言っても、食べるまでには相当の日数を要する。僕たちは今や遅しと、日々、変化していくつるし柿を眺めては、唾液を流したことだ。
時々手でつまんで、柿の感触を楽しんだ。つまみ食いするには時期尚早。渋が残っており、「ペッツ」とはき出すのが常だった。
父が存命の頃、言っていた言葉を思い出す。「餅はいやしん坊に焼かせろ」って。何のことかと言えば、いやしん坊は、餅をさわりたがる。従って、よく触っていると、餅が上手に焼けるわけだ。つるし柿も同じようなものだ。よく触ると、形よく出来る。ばい菌も付着するかもしれないが、日光が除菌の役目を果たしてくれる。僕は相当に、いやしん坊だったようだ。餅に限らず、何かにつけ、手を出していたようだ。そんなとき、ばあさまに、火箸で「ばしっ」とやられたことがある。火箸でたたくのは、じいさんや父ではなく、ほとんどがばあさんだ。その理由は不明。
だんだんと柔らかくなっていき、完成品となる頃には、すっかり塩を拭き、あのふくらっした橙色の柿の実が、茶色へ変わる。日光をを浴びて、柿の成分が化学反応をおこし、甘い味へ変身する。自然の力とは偉大である。そんなことは知るよしもなく、正月に柿を食らう。自分たちの手で作ったものはやはりおいしい。兄弟で、それぞれが食った柿の種の数を数え、勝った、負けたで、早々にけんかだ。懐かしく思い出した。
子供の頃は時がゆっくり流れ、今みたいにせわしくなかった。なんでもが興味の対象であり、時を忘れ遊びに惚けた。それが子供である。大人になり、世の中の仕組みが少しばかり理解できるようになった。如実に感じること。世の中が暮らしにくくなったことだ。時を追いかけ、時に追いかけられる。「豊かさ」というスローガンだけが先走り、心がついて行かない。そんな中、責任だけが両肩においかぶさる。特にリーダーたる者の責任は重大である。
最近、テレビでリーダーたる人たちの謝罪会見をよく目にする。「ええつ、またかあーーー。あそこもかあーーー」と目や耳を疑いたくなる。豊かさを生み出す背景には「心の良心」が必要だろう。その良心が欠落すれば社会は欺瞞だらけ。欺瞞に充ち満ちた社会の中で信じられるのは自分だけ。いつ、寝首を欠かれるか分からない。下克上、戦国時代と一緒だ。日本は今、そんな 様相を呈しているように見える。こんな社会が救われるには「心の良心」しかない。
日本、アメリカ、中国、韓国の四カ国で若者にアンケートをとったところ、リーダーになりたいと思う若者の数は、日本が最低だったそうだ。さもありなん。世のリーダー達の情けない姿に、うんざり感で一杯だろう。
また、この頃、少ない子供達が、事件に巻き込まれ、傷つき、命まで落としている。社会や親は、「容易に人を信じるな」と子供達に教える。法律や過保護という高い塀を巡らして、その中で育てようとする。そんな子供達が大人になった時、良い社会が築けているんだろうか?。
僕たちの子供時代が良い社会だったかどうかは分からない。ただ、言えることは一様に貧しかったが、心の良心が伴っていたようには思える。貧しさは心を開き、豊かさは心を閉じるものなんだろうか?。一面ではそう言えるかもしれない。心を閉じた状態が欺瞞を生む。欺瞞は偽りの豊かさを助長させるだけだ。そんな中、子供達は、人を信じて生きれる良心ある社会を構築出来るんだろうか?。じいさん、ばあさん、親はその良き手本であってほしい。
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