様々な所で、様々な人が生きている。様々な所で、様々な天災や人災がある。ひっくるめて災害と言うか?。昔は、遠い異国や遠方での出来事で、身近に感じることが少なかったが、今や文明機器の媒体を通して、あまりにも身近に網膜へ投射されてしまう。
先日は、ミャンマー直撃のサイクロン。今や中国大陸での大地震。何万人という人たちが犠牲になったよし。ゆゆしいことである。「天災は忘れた頃にやってくる」というが、まさにしかり。
日本列島でも各地で微弱な地震が多発している。不気味な気がしてならない。明日は我が身かも知れないからだ。「日本沈没」という映画があった。当時は、「ありえないこと」と一笑に伏していたが、その気持ちも消えた。予測不可能な事があまりにも多いからだ。
日本は今、関東大震災クラスの地震がいつやってきてもおかしくない環境にあると言われている。そのための防災対策も都会では考えられているようだが、どうも、日本人は生と死に対する認識に疎いようだ。農耕民族という言葉に代表されるように、目がとろーーーんとしていて、輝きを失い、雨が降ったらぬれていこう。なんとかなるさ。まだ大丈夫だろう的、感覚である。
実は僕もそういう性格を存分に持ち合わせている。あくせくもがいても仕方なかっぺ。なるようにしかならないちゃ。お天道様が西からのぼることはあるまいて。明日もあるでーーー」とかなんとか、ちゃらんぽらん的発想ばかりだ。
騎馬民族の人はそうではないらしい。とりあえず明日を考えないのだそうだ。一日が勝負。その日、一日に命を燃焼させている。毎日が生との闘いなのだ。だから、決して自分の過ちを認めることはしない。なぜなら、自分の行動は生そのものだからである。一旦、過ちを認めると、その禍根と言うか、因縁が5世代にわたって続くこともあるという。
この善し悪しは別として、農耕民族であれ、騎馬民族であれ、災害は人を分け隔てすることなく突然に、どこにでも発生する。要は日々の心の持ち方が大事なのではないか?。とにもかくにも、生きることにもう少し錬り張りを持ってもいいのかも知れない。錬り張りとは、ある時は農耕民族のごとく、のらりくらりと静的であり、またある時は騎馬民族となり、目を輝かせ動的に振る舞う。意見もどんどん述べる。かくして、その日、その日に命を燃焼させて生きる。こんな生き方かも良いかも知れない。ただ、こればかりじゃ、疲れるしなーーー。
やはり錬り張りだ。錬り張りがある人生こそ面白いし、未来への展望も明るいのではと思う。災害に対する対策、知恵もしかり。他人事とは思わず、「明日は我が身かも知れない」という危機感を念頭に、用意周到な対策が望まれるだろう。そう言いながら僕は未だ安穏としているから始末に悪い。すっかり農耕民族になってしまった。
ところで、僕は何が言いたかったのか論点がぼやけてしまった。そうそう、ただただ、ミャンマーと中国で被災された方々に心より哀悼の意も述べたかった。民族間の争いを避け、天災撲滅の為の共同の研究なり、被災撲滅のあらたなる対策の構築に世界が一致団結すべきだろう。
先日は、ミャンマー直撃のサイクロン。今や中国大陸での大地震。何万人という人たちが犠牲になったよし。ゆゆしいことである。「天災は忘れた頃にやってくる」というが、まさにしかり。
日本列島でも各地で微弱な地震が多発している。不気味な気がしてならない。明日は我が身かも知れないからだ。「日本沈没」という映画があった。当時は、「ありえないこと」と一笑に伏していたが、その気持ちも消えた。予測不可能な事があまりにも多いからだ。
日本は今、関東大震災クラスの地震がいつやってきてもおかしくない環境にあると言われている。そのための防災対策も都会では考えられているようだが、どうも、日本人は生と死に対する認識に疎いようだ。農耕民族という言葉に代表されるように、目がとろーーーんとしていて、輝きを失い、雨が降ったらぬれていこう。なんとかなるさ。まだ大丈夫だろう的、感覚である。
実は僕もそういう性格を存分に持ち合わせている。あくせくもがいても仕方なかっぺ。なるようにしかならないちゃ。お天道様が西からのぼることはあるまいて。明日もあるでーーー」とかなんとか、ちゃらんぽらん的発想ばかりだ。
騎馬民族の人はそうではないらしい。とりあえず明日を考えないのだそうだ。一日が勝負。その日、一日に命を燃焼させている。毎日が生との闘いなのだ。だから、決して自分の過ちを認めることはしない。なぜなら、自分の行動は生そのものだからである。一旦、過ちを認めると、その禍根と言うか、因縁が5世代にわたって続くこともあるという。
この善し悪しは別として、農耕民族であれ、騎馬民族であれ、災害は人を分け隔てすることなく突然に、どこにでも発生する。要は日々の心の持ち方が大事なのではないか?。とにもかくにも、生きることにもう少し錬り張りを持ってもいいのかも知れない。錬り張りとは、ある時は農耕民族のごとく、のらりくらりと静的であり、またある時は騎馬民族となり、目を輝かせ動的に振る舞う。意見もどんどん述べる。かくして、その日、その日に命を燃焼させて生きる。こんな生き方かも良いかも知れない。ただ、こればかりじゃ、疲れるしなーーー。
やはり錬り張りだ。錬り張りがある人生こそ面白いし、未来への展望も明るいのではと思う。災害に対する対策、知恵もしかり。他人事とは思わず、「明日は我が身かも知れない」という危機感を念頭に、用意周到な対策が望まれるだろう。そう言いながら僕は未だ安穏としているから始末に悪い。すっかり農耕民族になってしまった。
ところで、僕は何が言いたかったのか論点がぼやけてしまった。そうそう、ただただ、ミャンマーと中国で被災された方々に心より哀悼の意も述べたかった。民族間の争いを避け、天災撲滅の為の共同の研究なり、被災撲滅のあらたなる対策の構築に世界が一致団結すべきだろう。
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