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早、正月3日。時の流れは早い。正月1日、元旦は10時頃起床。遅く起きても誰も文句を言う人なし。束縛のない一日が始まった。既に配達済みの年賀状に目を通す。出し忘れをテェック。結構ある。今年はかなり手を抜いたから、さもありなん。例によって、とそを飲み、するめをかじり、つるし柿を口に頬張った。種三個。意外と少ない。以前は種を数えて、種が多いと、何故か嬉しかった。この心いかに?。元日早々、欲が心をもたげたか?。お雑煮を食べた。柔らかい丸餅が三個入っていた。今年は三に縁有りやと思わずほくそえみ。食後、出し忘れの賀状と、住所違いで舞い戻った賀状の新住所を登録。外を見やれば、薄曇りのなか田畑がさびしそうにたたずんでいる。人、一人っこ見えない。車も通らない。都会はいざしらず、田舎の正月とはこいうものだろう。
今朝テレビであっていたが、昔ながらの正月の風景は、すっかり消えてしまった。「お正月には凧あげて、コマをを回して遊びましょ。・・・・」。今はコマをまわすどころか、酒を喰らい、目を回して寝込んでいるのが現状。はたまた子供達はゲームに夢中。時の流れは、古き伝統を駆逐して、どんどん進化している。これを良しとすべきか否かは分からない。
そういう僕だって、正月の夜には数人の友人達と我が家で、ビール、酒、焼酎をあおり、残りの正月料理をついばみ、よもや話で賑わった。毎年のことだ。今度、一緒に旅に出る「のび太君」、関取の「ことおうしゅう」関を彷彿とさせる、ブルガリア出身の「にき君」、それに、お菓子屋のお姉さんがやってきた。どらえもん君に電話したところ、既に実家の義父と飲み、酩酊中。とても足を運べないとのこと。何時まで過ごしたか覚えていない。帰りに、残った料理を「にき君」に持たせた。
朝、起きると正月2日。お天道様は高く上っていた。この日も予定無し。僕は配信を待ち望んでいた韓国の歴史ドラマ「風の国」を一気に最終話まで見た。時折、涙をまじえながら感動の余韻に浸った。主人公が幼い子に語った言葉が印象に残った。「風のように生きる」。しかりだ。思い込みが早い僕は則、決定だ。今年の僕は風のように生きよう。風はやさしく頰をなで、あるときは激しく大地を吹き抜け、又、雨雲を呼び、作物を実らす。自由に空を駆け巡る。風・・・・風だぜ・・・・・。僕は元日から、少々、風邪気味だ。熱なし。新型ではない。ビタミンCを取り込み、快方へ向かっている。そう言えば、「千の風」といいう歌もあったよなあーーー。
ただ、いつも思うことだが、ドラマは主人公と、主人公を取り巻く人々のみにスポットを当てて、それ以外は捨象されている。幾多の人たちの犠牲の上で主人公は脚光を浴びるわけだ。戦争しかり。捨象された人々の人生は一体、何だったのだろうか?。人それぞれに運命があり、運命だったと割り切ればいいことなんだろうか?。全ての人々の運命を描くことはドラマでは出来ない。ドラマの限界でもある。もちろん現実の世界でも幾多の人々の生き様を我々が知ることが出来ないことも事実だ。せいぜい、年賀状をかわす人たちの近況を知ることが精一杯だろう。たとえ、マスメディアがどんなに発展しても、ほんの一握りの人たちとしか人生を共有できない。これはこれでいいのだろう。
正月早々、僕は何が言いたいのか?。自分でも分からない。要するに人間はすべからく、人生を共有しながら生きいている人たちの幸せを願いながら、悔いのない気持ちで墓場へ向かうことが肝心ということなのだろう。
はからずも、今日は知り合いの父親が亡くなり、お通夜に行かなくてはならない。
腹一杯、たらふく食べて、寝正月
という訳にもいかないようだ。
今朝テレビであっていたが、昔ながらの正月の風景は、すっかり消えてしまった。「お正月には凧あげて、コマをを回して遊びましょ。・・・・」。今はコマをまわすどころか、酒を喰らい、目を回して寝込んでいるのが現状。はたまた子供達はゲームに夢中。時の流れは、古き伝統を駆逐して、どんどん進化している。これを良しとすべきか否かは分からない。
そういう僕だって、正月の夜には数人の友人達と我が家で、ビール、酒、焼酎をあおり、残りの正月料理をついばみ、よもや話で賑わった。毎年のことだ。今度、一緒に旅に出る「のび太君」、関取の「ことおうしゅう」関を彷彿とさせる、ブルガリア出身の「にき君」、それに、お菓子屋のお姉さんがやってきた。どらえもん君に電話したところ、既に実家の義父と飲み、酩酊中。とても足を運べないとのこと。何時まで過ごしたか覚えていない。帰りに、残った料理を「にき君」に持たせた。
朝、起きると正月2日。お天道様は高く上っていた。この日も予定無し。僕は配信を待ち望んでいた韓国の歴史ドラマ「風の国」を一気に最終話まで見た。時折、涙をまじえながら感動の余韻に浸った。主人公が幼い子に語った言葉が印象に残った。「風のように生きる」。しかりだ。思い込みが早い僕は則、決定だ。今年の僕は風のように生きよう。風はやさしく頰をなで、あるときは激しく大地を吹き抜け、又、雨雲を呼び、作物を実らす。自由に空を駆け巡る。風・・・・風だぜ・・・・・。僕は元日から、少々、風邪気味だ。熱なし。新型ではない。ビタミンCを取り込み、快方へ向かっている。そう言えば、「千の風」といいう歌もあったよなあーーー。
ただ、いつも思うことだが、ドラマは主人公と、主人公を取り巻く人々のみにスポットを当てて、それ以外は捨象されている。幾多の人たちの犠牲の上で主人公は脚光を浴びるわけだ。戦争しかり。捨象された人々の人生は一体、何だったのだろうか?。人それぞれに運命があり、運命だったと割り切ればいいことなんだろうか?。全ての人々の運命を描くことはドラマでは出来ない。ドラマの限界でもある。もちろん現実の世界でも幾多の人々の生き様を我々が知ることが出来ないことも事実だ。せいぜい、年賀状をかわす人たちの近況を知ることが精一杯だろう。たとえ、マスメディアがどんなに発展しても、ほんの一握りの人たちとしか人生を共有できない。これはこれでいいのだろう。
正月早々、僕は何が言いたいのか?。自分でも分からない。要するに人間はすべからく、人生を共有しながら生きいている人たちの幸せを願いながら、悔いのない気持ちで墓場へ向かうことが肝心ということなのだろう。
はからずも、今日は知り合いの父親が亡くなり、お通夜に行かなくてはならない。
腹一杯、たらふく食べて、寝正月
という訳にもいかないようだ。
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