「おまえは何者ぞ?」
2010年5月26日 日常 コメント (1) 今日も一日中曇り空。風やや強し。木の葉っぱが渦を巻いて各所に散在している。これを掃き寄せ、くずかごに「ポイ」と捨てるのは、僕の日課。くずかごが一杯になると、穴を掘った窪地まで運び、火炎放射器で一網打尽だ。庭がきれいになり、結構、運動にもなるから一石二鳥だ。ただ、掃き寄せても、また、風が木の葉を散らす。「いたちごっこだぜ」と思うが仕方がない。僕はまた木の葉を掃き寄せる。
ある、偉い坊さんが言っていたが、お釈迦様の教えを簡単な言葉で言うと、「何にもならないことを、ただひたすら一生懸命にすること」だそうだ。それを聞いたとき、単細胞な僕は思った。「なんにもならないこと」なら誰もする者はいないじゃん?って。
よくよく考えてみると、そこが「みそ」なんだよなあーーー。禅問答のなぞかけではないが、何にもならなくても、ひたすら何かをするって事は、無になる。空になることと同じ。まさに般若心経の世界なのかもしれない。
数年前だったか、駅中の本屋さんで、おもしろい本をみつけた。「生きて死ぬ」という本で、生命科学者の柳澤桂子さんが書かれたものである。内容は般若心経というお経を科学的に解説されたものだ。能天気で鈍感な僕には理解できる術もなかったが、後書きにすばらしいことを書いておられた。
我々は物事を二元的に見、考える。そこから執着が生まれ、欲を生む原因になるというのだ。二元的とは自己と他者、自分と他の者と、区別して考えたり見たりすることらしい。なんでも、赤ちゃんは生まれたとき、母親のお腹に乗せると、1人でずれ上がって、母親の乳首に達するそうだ。これは本能的に脳の中に記憶されているという。要するに、生まれ落ちたそのときに既に、自己と他者を区別して行動していると、柳澤さんは言う。二元的に振る舞っているわけだ。成長と共に、この二元的振る舞いが強くなっていく。
そこで、柳澤さんは一元的にものを見たらどうだろうと提唱されている。僕のあやふやな知識では説明できないので、柳澤さんの言葉を引用して記そう。
「わたしたちは原子からできています。原子は動き回っているために、この物質の世界が成り立っているのです。この宇宙を原子のレベルで見てみましょう。私のいるところは少し原子の密度が高いかも知れません。あなたのいるところも高いでしょう。戸棚の所も原子が密に存在するでしょう。これが宇宙を一元的に見たときの景色です。一面の原子の飛び交っている空間の中に、ところどころ原子が密に存在するところがあるだけです。」
「あなたもありません。私もありません。けれどもそれはそこに存在するのです。物も原子の濃淡でしかありませんから、それにとらわれることもありません。一元的な世界こそが真理で、私たちは錯覚を起こしているのです。」
「このように宇宙の真実に目覚めた人は、物事に執着するということがなくなり、何事も淡々と受け容れることが出来るようになります。」
いやああ、なかなか難しい。般若心経はまさに一元的に見た宇宙観であり、「何にもならないことを、ただひたすらする」と言うことにも、通ずるだろう。
かくして、僕は、ただひたすら、落ち葉を掃き寄せ、自然に戻しているわけであります。「そういうおまえは一体、何者ぞ?」。えええつ、また禅問答ですか?。あります。あります。答えが。ええええええっと、これも先人の偉い坊さんの言われたことばの借り物ですが・・・。「説似一物即不中(せつじいちもつそくふちゅう)」。「馬鹿者」と、なぐられそうだ。
うんんんん、先人の借り物じゃーー失格だ。「おまえは何者ぞ」と問われても、いつも答えを二元的な見方の中からさがそうとする。これがいけないんだよなーーー。素直に答えればいいわけだ。「わかりませーーーん」。これが正解だ。何と答えても嘘になるからだ。物事の本質をぴたりと説明することは難しい。あえて、もうひとつ、答えを出すならば、「おまえは何者ぞ?」「はい、私は濃淡です」と言うしかあるまい。
ある、偉い坊さんが言っていたが、お釈迦様の教えを簡単な言葉で言うと、「何にもならないことを、ただひたすら一生懸命にすること」だそうだ。それを聞いたとき、単細胞な僕は思った。「なんにもならないこと」なら誰もする者はいないじゃん?って。
よくよく考えてみると、そこが「みそ」なんだよなあーーー。禅問答のなぞかけではないが、何にもならなくても、ひたすら何かをするって事は、無になる。空になることと同じ。まさに般若心経の世界なのかもしれない。
数年前だったか、駅中の本屋さんで、おもしろい本をみつけた。「生きて死ぬ」という本で、生命科学者の柳澤桂子さんが書かれたものである。内容は般若心経というお経を科学的に解説されたものだ。能天気で鈍感な僕には理解できる術もなかったが、後書きにすばらしいことを書いておられた。
我々は物事を二元的に見、考える。そこから執着が生まれ、欲を生む原因になるというのだ。二元的とは自己と他者、自分と他の者と、区別して考えたり見たりすることらしい。なんでも、赤ちゃんは生まれたとき、母親のお腹に乗せると、1人でずれ上がって、母親の乳首に達するそうだ。これは本能的に脳の中に記憶されているという。要するに、生まれ落ちたそのときに既に、自己と他者を区別して行動していると、柳澤さんは言う。二元的に振る舞っているわけだ。成長と共に、この二元的振る舞いが強くなっていく。
そこで、柳澤さんは一元的にものを見たらどうだろうと提唱されている。僕のあやふやな知識では説明できないので、柳澤さんの言葉を引用して記そう。
「わたしたちは原子からできています。原子は動き回っているために、この物質の世界が成り立っているのです。この宇宙を原子のレベルで見てみましょう。私のいるところは少し原子の密度が高いかも知れません。あなたのいるところも高いでしょう。戸棚の所も原子が密に存在するでしょう。これが宇宙を一元的に見たときの景色です。一面の原子の飛び交っている空間の中に、ところどころ原子が密に存在するところがあるだけです。」
「あなたもありません。私もありません。けれどもそれはそこに存在するのです。物も原子の濃淡でしかありませんから、それにとらわれることもありません。一元的な世界こそが真理で、私たちは錯覚を起こしているのです。」
「このように宇宙の真実に目覚めた人は、物事に執着するということがなくなり、何事も淡々と受け容れることが出来るようになります。」
いやああ、なかなか難しい。般若心経はまさに一元的に見た宇宙観であり、「何にもならないことを、ただひたすらする」と言うことにも、通ずるだろう。
かくして、僕は、ただひたすら、落ち葉を掃き寄せ、自然に戻しているわけであります。「そういうおまえは一体、何者ぞ?」。えええつ、また禅問答ですか?。あります。あります。答えが。ええええええっと、これも先人の偉い坊さんの言われたことばの借り物ですが・・・。「説似一物即不中(せつじいちもつそくふちゅう)」。「馬鹿者」と、なぐられそうだ。
うんんんん、先人の借り物じゃーー失格だ。「おまえは何者ぞ」と問われても、いつも答えを二元的な見方の中からさがそうとする。これがいけないんだよなーーー。素直に答えればいいわけだ。「わかりませーーーん」。これが正解だ。何と答えても嘘になるからだ。物事の本質をぴたりと説明することは難しい。あえて、もうひとつ、答えを出すならば、「おまえは何者ぞ?」「はい、私は濃淡です」と言うしかあるまい。
コメント
一日15分、座禅などをして、考えてみるには良いかもしれませんね。私はイライラするといつも 寝るか、座禅をします。