自由に生きるとは?。
2010年5月29日 日常 からりと晴れ渡った五月の空。空が高い。鳥がチュンチュン鳴いている。風も無し。こんな日は心までが、すがすがしい。ただ、妙に肌寒く感じられるのが気がかりだ。この季節、昔は、もっと暑かったような気がする。去年の今頃、僕はどんな服装をしていたのだろうか?と、ふと思った。覚えていない。
おっと、今、「竿だけ」売りの、おばさんの声が、マイクから流れた。「竿だけー、竿だけー」と、美声さながら、おらんでいる。まさに、高い青空に舞い上がったヒバリのごとし。ちょっと、大げさかあーー。以前、購入したことがあったので、「今、間に合っています」って言いたいが、距離が遠い。
話が中断してしまった。多分、去年の今頃は短パンにTシャツという出で立ちだったかもしれない。そういうことにすると、今日の僕がそのスタイルだ。ただ一つ違う点と言えば、短パンの下にステテコをはいていることだろう。今ばやりのカラフルなステテコだ。このステテコが短パンからはみ出し、奇妙なバランス、いや、アンバランスを醸し出している。「ふうてんの寅さん」でも、ここまではすまい。そう、思って、はしゃいでいるのは僕だけか?。
従って、周りから叱責をかうのは必定。「そんな恰好で人前に出ないでください」と、怪訝な顔をされている。もち、僕だって、分かっている。客が来れば、「さっ」と、長ズボンを短パンの上からはくか、時間があれば、短パンを脱いで、長ズボンに着替える。そういうことを見込んでの、短パン、ステテコ作戦である。
とは言うものの、時には失態をさらす。そのままの姿で、玄関まで行くことがあるからだ。客と挨拶を交わし、すかさず僕は言う。「こんな恰好で済みません」と。それで、全てが解決だ。人間、どんなに体裁を繕おうと、所詮、「同じ穴のむじな」。皆、似たり寄ったりだろう。
だが、しかし、ばっと、常識というものがあるならば、それは必要だろう。さすがに僕も、女性客の場合には、短パン・ステテコの姿では応対しない。昨今、問題視されている「セクハラ」と、思われても仕方がないからだ。
夏目漱石が、「草枕」のなかで述べている。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
まさにその通りだ。常識ばかりで生きるのも窮屈、きわまりない。だから僕は時々、非常識になるわけだ。人がどう判断しようと、お構いなし。それくらいの自由はあっても良いだろう。これからも短パン・ステテコ作戦を実行しようと思う。冬になったら極力、「はだし」作戦で臨もう。来客がびっくりするだろう。「ええええつ、靴下はいていないんですか?」と。僕は応えるだろう。「ええ、これが趣味ですから」と。
そもそも、常識とは大方の人間が「右ならえ」でやっていること。「赤信号、皆で渡れば怖くない」。これだって、例としては良くないが、常識らしき範疇にはいるか?。一人で赤信号を渡れば、まさに非常識。社会的な規範は守らねばならないが、個人的には、常識にとらわれず、自由に生きたいものだ。住みにくい世の中であればこそ、自由を謳歌したい。
おっと、今、「竿だけ」売りの、おばさんの声が、マイクから流れた。「竿だけー、竿だけー」と、美声さながら、おらんでいる。まさに、高い青空に舞い上がったヒバリのごとし。ちょっと、大げさかあーー。以前、購入したことがあったので、「今、間に合っています」って言いたいが、距離が遠い。
話が中断してしまった。多分、去年の今頃は短パンにTシャツという出で立ちだったかもしれない。そういうことにすると、今日の僕がそのスタイルだ。ただ一つ違う点と言えば、短パンの下にステテコをはいていることだろう。今ばやりのカラフルなステテコだ。このステテコが短パンからはみ出し、奇妙なバランス、いや、アンバランスを醸し出している。「ふうてんの寅さん」でも、ここまではすまい。そう、思って、はしゃいでいるのは僕だけか?。
従って、周りから叱責をかうのは必定。「そんな恰好で人前に出ないでください」と、怪訝な顔をされている。もち、僕だって、分かっている。客が来れば、「さっ」と、長ズボンを短パンの上からはくか、時間があれば、短パンを脱いで、長ズボンに着替える。そういうことを見込んでの、短パン、ステテコ作戦である。
とは言うものの、時には失態をさらす。そのままの姿で、玄関まで行くことがあるからだ。客と挨拶を交わし、すかさず僕は言う。「こんな恰好で済みません」と。それで、全てが解決だ。人間、どんなに体裁を繕おうと、所詮、「同じ穴のむじな」。皆、似たり寄ったりだろう。
だが、しかし、ばっと、常識というものがあるならば、それは必要だろう。さすがに僕も、女性客の場合には、短パン・ステテコの姿では応対しない。昨今、問題視されている「セクハラ」と、思われても仕方がないからだ。
夏目漱石が、「草枕」のなかで述べている。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
まさにその通りだ。常識ばかりで生きるのも窮屈、きわまりない。だから僕は時々、非常識になるわけだ。人がどう判断しようと、お構いなし。それくらいの自由はあっても良いだろう。これからも短パン・ステテコ作戦を実行しようと思う。冬になったら極力、「はだし」作戦で臨もう。来客がびっくりするだろう。「ええええつ、靴下はいていないんですか?」と。僕は応えるだろう。「ええ、これが趣味ですから」と。
そもそも、常識とは大方の人間が「右ならえ」でやっていること。「赤信号、皆で渡れば怖くない」。これだって、例としては良くないが、常識らしき範疇にはいるか?。一人で赤信号を渡れば、まさに非常識。社会的な規範は守らねばならないが、個人的には、常識にとらわれず、自由に生きたいものだ。住みにくい世の中であればこそ、自由を謳歌したい。
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