「故郷は遠きにありて思ふもの。そして悲しく歌ふもの。よしや、うらぶれて異土の乞食となるとても、帰るところにあるまじや・・・・・」。
いやああ、故郷かぁーーー。遠くで思い、悲しく歌う。たとえ、貧乏していても帰るところではない。やはり、錦を飾って帰るところなのか?。
我が身はどうだ?。日々、労働に明け暮れ、汗水たらして稼いだ幾ばくかの金銭も、指の隙間からどんどん流れていく、「関節が太くなった手をじっと見る」のが関の山だ。故郷も遠くになりけりか?
とは言うものの、生来のおっちょこちょいで、能天気の風来坊。なりふり構わず帰ってしまうのが僕の性分。その心はいかに?。おっかさんのおっぱいが恋しいのか?。いや、そうではない。本当に?。もちろんだ。本当に?本当に?。うう・・・ん、ちと、恋しいか。ま、そういうことにしておこう。深く言及すべきことではない。心の問題だ。
故郷はいつも温かく僕を迎えてくれる。空気は昔のままだ。ちと、うるさいことと言えば近隣界隈だろう。「今、どこにおんなさっと?」、「何、しとんなさっと?」、「立派になんなさったねーーー」と、会う人ごとに聞いてくる。僕も、方言を交え、苦笑いしながら応える。いやあああーーー、これが疲れるのなんのって。田舎とはそういう所だ。この奇妙な連帯感は心地よくもあり、うっとうしくもあり。
空を見上げると、遠い昔の事がよみがえる。学校まで、てくてく通った道のり。土手道をOL風女性とすれ違う。僕はつばの長い学生帽を深々とかぶり、そっぽ向いて行き交わした。毎朝の習慣だった。それが時折、会わない日があった。そんな時、妙に寂しさを覚えた。これが思春期というやつか?。今思うと、おかしさがこみ上げてくる。そんな土手を歩いてみた。
我が故郷は海あり山ありの小さな温泉町。山には温泉神社があった、大学時代だったか?。友達から買い受けたトランペットを持参で、神社のさらに上の山腹に登り、「夜空のトランペット」とか「夕焼けのトランペット」とかいう曲を吹いて練習していたことがあった。下手な音色がどこまで届いていたか知らない。「あんたが吹いてんの?」と友人から聞かれた。
その後の事だ。小・中学校の同級生の女の子が僕の家を始め、同級生の家を訪問し、生け花をいけたり、掃除を手伝ったりで巡回しているという。その原因が僕のトランペットにあると友人が言う。まさか。僕の下手なペットの音色に彼女が翻弄されるはずもない。僕はそそくさと故郷を後にした。以来、ペットを吹くことを止めた。「神田川」という歌ではないが。「あなたの優しさが怖かった」からである。今、彼女がどうしているか知らない。
故郷はいろんな事を思い出させてくれる。父母、祖父母がいる。だから帰りたいのだ。ゆっくりと人生を振り返るには故郷が一番良い。そんな故郷が昨今、危機的状況にある。盆、正月の帰省現象は相変わらず続いているが、昔と違うところは、「のんびり感」がなくなった事だろう。あまりにせわしい感じがする。ゆっくりできない。文明化の流れは良き故郷を駆逐しつつある。昔ながらの近隣おっさん、おばさんもいなくなり、都会風田舎に様変わり。そんな田舎に、どんな魅力があるというのだ。
核家族化と叫ばれて久しいが、その弊害が今、あらわになった、高齢者の生存不明が20数万件あるという。祖父母や父母、はたまた故郷は一体、どこへ行ったのか?。今更、大家族的生活様式は取り戻せないが、少なくとも、父母、祖父母や先祖は心の故郷だ。いかなる社会になろうとも、その存在を忘れてはならないだろう。
いやああ、故郷かぁーーー。遠くで思い、悲しく歌う。たとえ、貧乏していても帰るところではない。やはり、錦を飾って帰るところなのか?。
我が身はどうだ?。日々、労働に明け暮れ、汗水たらして稼いだ幾ばくかの金銭も、指の隙間からどんどん流れていく、「関節が太くなった手をじっと見る」のが関の山だ。故郷も遠くになりけりか?
とは言うものの、生来のおっちょこちょいで、能天気の風来坊。なりふり構わず帰ってしまうのが僕の性分。その心はいかに?。おっかさんのおっぱいが恋しいのか?。いや、そうではない。本当に?。もちろんだ。本当に?本当に?。うう・・・ん、ちと、恋しいか。ま、そういうことにしておこう。深く言及すべきことではない。心の問題だ。
故郷はいつも温かく僕を迎えてくれる。空気は昔のままだ。ちと、うるさいことと言えば近隣界隈だろう。「今、どこにおんなさっと?」、「何、しとんなさっと?」、「立派になんなさったねーーー」と、会う人ごとに聞いてくる。僕も、方言を交え、苦笑いしながら応える。いやあああーーー、これが疲れるのなんのって。田舎とはそういう所だ。この奇妙な連帯感は心地よくもあり、うっとうしくもあり。
空を見上げると、遠い昔の事がよみがえる。学校まで、てくてく通った道のり。土手道をOL風女性とすれ違う。僕はつばの長い学生帽を深々とかぶり、そっぽ向いて行き交わした。毎朝の習慣だった。それが時折、会わない日があった。そんな時、妙に寂しさを覚えた。これが思春期というやつか?。今思うと、おかしさがこみ上げてくる。そんな土手を歩いてみた。
我が故郷は海あり山ありの小さな温泉町。山には温泉神社があった、大学時代だったか?。友達から買い受けたトランペットを持参で、神社のさらに上の山腹に登り、「夜空のトランペット」とか「夕焼けのトランペット」とかいう曲を吹いて練習していたことがあった。下手な音色がどこまで届いていたか知らない。「あんたが吹いてんの?」と友人から聞かれた。
その後の事だ。小・中学校の同級生の女の子が僕の家を始め、同級生の家を訪問し、生け花をいけたり、掃除を手伝ったりで巡回しているという。その原因が僕のトランペットにあると友人が言う。まさか。僕の下手なペットの音色に彼女が翻弄されるはずもない。僕はそそくさと故郷を後にした。以来、ペットを吹くことを止めた。「神田川」という歌ではないが。「あなたの優しさが怖かった」からである。今、彼女がどうしているか知らない。
故郷はいろんな事を思い出させてくれる。父母、祖父母がいる。だから帰りたいのだ。ゆっくりと人生を振り返るには故郷が一番良い。そんな故郷が昨今、危機的状況にある。盆、正月の帰省現象は相変わらず続いているが、昔と違うところは、「のんびり感」がなくなった事だろう。あまりにせわしい感じがする。ゆっくりできない。文明化の流れは良き故郷を駆逐しつつある。昔ながらの近隣おっさん、おばさんもいなくなり、都会風田舎に様変わり。そんな田舎に、どんな魅力があるというのだ。
核家族化と叫ばれて久しいが、その弊害が今、あらわになった、高齢者の生存不明が20数万件あるという。祖父母や父母、はたまた故郷は一体、どこへ行ったのか?。今更、大家族的生活様式は取り戻せないが、少なくとも、父母、祖父母や先祖は心の故郷だ。いかなる社会になろうとも、その存在を忘れてはならないだろう。
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