九九才七ヶ月で亡くなった母親の一周忌が近づいているとのことで、友人から手紙が届いた。ニックネームを「スネ夫君」と名付けている。5~6年前、旅行に行った仲間だ。そのときは彼がリーダー。

手紙の内容は、法要の後に出すお礼状を作成して欲しいとの依頼文。パソコンが壊れたらしい。報酬一万円と、母親の生い立ちを綴った原稿が同封されていた。原稿を読んだとき、思わず涙が出た。戦中戦後をたくましく生きた母親の姿が如実に描かれていた。我が母親のことに思いを馳せた。

彼の母親は、八歳の時、両親を亡くし親戚にあずけられた。成長と共に、思うところがあり、看護婦の道を志し東京へでて、付き添い看護婦として働いたそうだ。その後、縁あって二十八歳の時、結婚。こちらへ赴任し、入居した家は、裸電球と火鉢が一個しかない状況。この現状を見て、「お父さん、明日からどうやって生活しましょうか?」と、心細げに語っていたと言う。近所から風呂桶や自転車をもらいうけ、何とか生計を立てていたとのこと。

そんな母親の姿を、「今は懐かしく思い出している」と、スネ夫は言う。彼は六人兄弟の三男。戦後生まれである。母親は看護婦だったということもあり、前戦にもかり出されたとのこと。スネ夫君の頭には想像だにつかない世界を母親は生きてきたわけである。

スネ夫君の父は昭和の晩年に亡くなった。以後、母親は子供六人を育てながら、たくましく生きていたが、左右の大腿骨折や、開腹手術などの災難に見舞われた。それでも、明るく気丈に振る舞ってきたという。スネ夫君は、そんな母親の最期を看取った。安らかな表情だったと聞いた。合掌。

もちろん、戦中戦後を生きてきた人たちは、多かれ少なかれ同じような経験を持っているだろう。僕の母とて例外ではないが、なにせ記憶は忘却のかなたへ去ってしまった。母はまだ存命しているので、今のうちに色々と聞いておこうと思う。ちなみに僕は次男だ。故郷には兄が、「ドーン」と構えている。おおおおつ、嫌だぜーーーーー。

何はともあれ、母という存在は偉大だ。特に男にとってはそうだろう。遠方にいると、なおさら、そう思う。不肖不出来の我が身ながら、故郷に住む母の事を思うとき、胸に、「ジーン」とくるものを感じる。

そんな時、よく室生犀星さんお詩を思い出す。

     ふるさとは遠きにありて思ふもの
     そして悲しくうたふもの
     よしや
     うらぶれて異土の乞食となるとても
     帰るところにあるまじや
     ひとり都のゆふぐれに
     ふすさとおもひ涙ぐむ
     そのこころもて
     遠きみやこにかえらばや
     遠きみやこにかえらばや

いやはや、今日は湿っぽくなった。スネ夫君の母を思う気持ちが僕の心を打った。今日は真面目な僕、ジャイアンでいよう。






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