夏本番到来だ。蝉が「ワン、ワン」鳴いている。土の中で長年過ごし、木をよじ登って脱皮。一人前の蝉となり、精一杯の生を輝かせる。刹那の時なれど、その姿は尊い。
人間の生はどうだ?。平均寿命、女性86年。男性79年。みな、生を輝かせて生きているだろうか?。蝉の生が尊いのは何故か。恐らく、蝉は蝉の本分に生きているからに違いない。
しからば、人間が本分に生きるとはどういうことか?。ある坊さんから聞いたことがある。「人間が本分に生きるとは仏とともに生きることだ」と。
奇妙なるかな心。不思議なるかな心。この心あって初めて山川草木あり。世にある一切の物は、この心より生じ、この心に帰す。人、いずこより生まれ来る。すなわちこの心より生まれ来る。人、死していずれのところにか去る。すなわちこの心に帰るなり。わが心を離れて仏なく、仏を離れてわが心なし。
うんん、なかなか抽象的で難しい。いつも、心に仏があるわけだ。以前、のりちゃん先生(友人)と議論したことがある。「心はすべて脳の働きが醸し出す作用だよ。心臓に心があるわけではない」と。現代科学では確かにそうかもしれない。ただ、ある学者は、「心は体の全身にある。手にも足にも、いたるところに。」とも言っている。どちらかといえば「心は体の全身にある」って方を信じたいなあーー。
石ころや瓦礫にも魂が宿っているという。魂・・・、心と言い換えてもいいかもしれない。すなわち、その人の心、魂が、石ころや瓦礫のなかに投影されているわけだ。投影されているから、石ころや、瓦礫さえ、いとおしく、心を持った存在として感じられるのだ。
昨今、いじめ等の問題が社会化している。いじめも、すなわちその人の心の働きだ。山川草木をめでるように、人間関係においても、慈しみ、慈悲の心で人と接すればおのずと、いじめもなくなるだろう。
悲しいかな。人間には欲がある。欲が必ずしも悪いわけではない。欲があったればこそ、この高度な文明も築けたわけだ。ただ、欲という心が、必要以上に頭をもたげる。必要悪だ。心に仏があれば、この欲を抑えることができるだろうに。学校教育は「ゆとりの教育」ではなく、もっと「心の教育」に力を入れるべきだ。心の教育とは「仏に仕える」ということではなく、仏の本文である、いつくしみ、慈愛の心を育てる教育をすべきと言うことだ。
今日ははからずも坐禅をした。一組の親子と坐る機会を得た。蝉の鳴き声のみが聞こえ、足の痛みが、ずしーーーんと走る。時折、スナックのM子ちゃんの笑顔が脳裏に浮かぶ。「坐禅は安楽の法門」というが、「ああーつ、早く安楽な所へ行きたいぜ」と心が叫ぶ。おっと、これは安楽違いだ。わが心をもっと教育しなくちゃあ・・・・。
人間の生はどうだ?。平均寿命、女性86年。男性79年。みな、生を輝かせて生きているだろうか?。蝉の生が尊いのは何故か。恐らく、蝉は蝉の本分に生きているからに違いない。
しからば、人間が本分に生きるとはどういうことか?。ある坊さんから聞いたことがある。「人間が本分に生きるとは仏とともに生きることだ」と。
奇妙なるかな心。不思議なるかな心。この心あって初めて山川草木あり。世にある一切の物は、この心より生じ、この心に帰す。人、いずこより生まれ来る。すなわちこの心より生まれ来る。人、死していずれのところにか去る。すなわちこの心に帰るなり。わが心を離れて仏なく、仏を離れてわが心なし。
うんん、なかなか抽象的で難しい。いつも、心に仏があるわけだ。以前、のりちゃん先生(友人)と議論したことがある。「心はすべて脳の働きが醸し出す作用だよ。心臓に心があるわけではない」と。現代科学では確かにそうかもしれない。ただ、ある学者は、「心は体の全身にある。手にも足にも、いたるところに。」とも言っている。どちらかといえば「心は体の全身にある」って方を信じたいなあーー。
石ころや瓦礫にも魂が宿っているという。魂・・・、心と言い換えてもいいかもしれない。すなわち、その人の心、魂が、石ころや瓦礫のなかに投影されているわけだ。投影されているから、石ころや、瓦礫さえ、いとおしく、心を持った存在として感じられるのだ。
昨今、いじめ等の問題が社会化している。いじめも、すなわちその人の心の働きだ。山川草木をめでるように、人間関係においても、慈しみ、慈悲の心で人と接すればおのずと、いじめもなくなるだろう。
悲しいかな。人間には欲がある。欲が必ずしも悪いわけではない。欲があったればこそ、この高度な文明も築けたわけだ。ただ、欲という心が、必要以上に頭をもたげる。必要悪だ。心に仏があれば、この欲を抑えることができるだろうに。学校教育は「ゆとりの教育」ではなく、もっと「心の教育」に力を入れるべきだ。心の教育とは「仏に仕える」ということではなく、仏の本文である、いつくしみ、慈愛の心を育てる教育をすべきと言うことだ。
今日ははからずも坐禅をした。一組の親子と坐る機会を得た。蝉の鳴き声のみが聞こえ、足の痛みが、ずしーーーんと走る。時折、スナックのM子ちゃんの笑顔が脳裏に浮かぶ。「坐禅は安楽の法門」というが、「ああーつ、早く安楽な所へ行きたいぜ」と心が叫ぶ。おっと、これは安楽違いだ。わが心をもっと教育しなくちゃあ・・・・。
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