先日、同業者の先輩が亡くなった。どうして?、なんで?、また?と、我が耳を疑った。早朝に電話が鳴り、その日に仮通や、翌日に本通やを済ませ、その後、葬儀と相なった。先輩には随分と可愛がってもらったので、悲しみもひとしおだ。苦しんだ様子もなく、穏やかな顔をしていた。そのことが、せめてもの救いだ。
生とは何か?。死とは何か?。生の陰に死あり。死の陰に生あり。生と死はまさに表裏一体。定まりのないものだ。生命科学者。柳澤桂子さんが、その著書の中で書いていた。「宇宙を一元的にみると、一切のものは単なる原子の濃淡に過ぎない。原子が飛び回り物質が成り立っている。あなたも、わたしもない。けれどもそれは存在する。物は原子の濃淡でしかないから、それに執着することもない。一元的な世界こそ真理で、我々は錯覚を起こしている。宇宙の真実に目覚めた人は物事に執着することがなく、何事も淡々と受け入れられるようになる」と。
いやああ、そこに達しているのは神や佛だ。人間は自己と他者というように、二元的に物事を考えるから、喜び悲しみを知る。とらわれも生じる。生きているときは、それでいいのではないか?。喜びや悲しみがあるからこそ人間の心は浄化して行く。成長していくわけだ。浄化していく心の終着点が、一元的な世界なのかもしれない。
とはいえ、人間は死ぬ間際に後悔することが多々あるという。以前、日記にも書いたが、あんなに仕事をしなければよかった。もっと友達を持てばよかった。もっと、家庭を大事にすればよかった等々。これでは一元的な境地に達していないことになる。
僕は逝くときに何を考えるだろうか?。後悔の念が、次から次へと湧いてくるかも?。おっと、その前に、考えることさえ考えられない状態かもしれない?。ということは早めに身辺整理と、辞世の句を用意しとくべきか。
今はただ、先輩の冥福を心から祈ろう。
生とは何か?。死とは何か?。生の陰に死あり。死の陰に生あり。生と死はまさに表裏一体。定まりのないものだ。生命科学者。柳澤桂子さんが、その著書の中で書いていた。「宇宙を一元的にみると、一切のものは単なる原子の濃淡に過ぎない。原子が飛び回り物質が成り立っている。あなたも、わたしもない。けれどもそれは存在する。物は原子の濃淡でしかないから、それに執着することもない。一元的な世界こそ真理で、我々は錯覚を起こしている。宇宙の真実に目覚めた人は物事に執着することがなく、何事も淡々と受け入れられるようになる」と。
いやああ、そこに達しているのは神や佛だ。人間は自己と他者というように、二元的に物事を考えるから、喜び悲しみを知る。とらわれも生じる。生きているときは、それでいいのではないか?。喜びや悲しみがあるからこそ人間の心は浄化して行く。成長していくわけだ。浄化していく心の終着点が、一元的な世界なのかもしれない。
とはいえ、人間は死ぬ間際に後悔することが多々あるという。以前、日記にも書いたが、あんなに仕事をしなければよかった。もっと友達を持てばよかった。もっと、家庭を大事にすればよかった等々。これでは一元的な境地に達していないことになる。
僕は逝くときに何を考えるだろうか?。後悔の念が、次から次へと湧いてくるかも?。おっと、その前に、考えることさえ考えられない状態かもしれない?。ということは早めに身辺整理と、辞世の句を用意しとくべきか。
今はただ、先輩の冥福を心から祈ろう。
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