良い天気になった。青空に真っ白い雲が浮かんでいる。「おーーーい。雲よ」と叫んでみたい。家の周囲の稲が刈られた。切りかぶだけが淋しそうに残っている。以前はこの切りかぶを焼いていたが、今は耕耘機で一緒に耕し土中に埋めてしまうようだ。肥料となり、この方が環境面にとっても良いのだろう。
それはそうと、台風26号が去った。残した爪痕は大きい。伊豆大島では20名近くの人が亡くなり、行方不明の人達も多数いるようだ。ゆゆしいことである。ただただ、お悔やみとお見舞いを申し上げたい。いくら用意周到に準備しても自然の驚異にはかなわない。受け身の立場は弱いものだ。
時々思うが、台風が発生したら、こちらから台風の目に先制攻撃をして、消滅させることは出来ないものかと。又、地震の予知が可能なら、ずれそうな断層に「つっかえ棒」を施して、断層の滑り込みを防止する。将来、科学がもっと発展すれば、これも可能になるかも知れない。ただ、厄介なことは地球も生き物であることだ。地球も言うだろう。「俺の生きる権利はどうしてくれるんだ」と。と言うことは、自然と共存共栄できる最善の方策を構築していくことしか出来ないのかも知れない。
僕もそうだが、日本人には意外と能天気なところがあるようだ。「雨が降るなら濡れていこう」。「生、来たらば生にまかせ、死、来たらば死にまかす」。いかにも風流で人生を達観しているようだが、一般人は禪坊主や仙人ではない。僕ならすぐ、洞穴にかくれたり、「死にたくないよーーー」って泣き叫ぶだろう。とりもなおさず、大自然が穏やかである事を祈り、今できる最善の方法を考えるしかない。
話しは変わるが、先日ラジオで、なるほどと思える話しを聞いた。教育に関する話しである。「ゆとりある教育」と叫ばれて久しいが、その「ゆとり」をもっと増やすべきだと、大学の先生が提言していた。マニュアル化された画一的な教育ではなく、多様化された教育を行い、プロフェッショナルな人材を育てていく。この多様性が今の日本には必要だと言っていた。
そのためには、学校の授業も午前中は、マニュアル化された教育を行ってもよいが、午後からは、個々人が興味を持っている、やりたいと思っている分野に時間をさき、その面での能力を伸ばす。小さい頃から好きなことに専念できる時間と空間を与える。かくして、いろんな分野でのプロフェッショナルが誕生し、外国との競争にも打ち勝っていける。
その端的な例が、最近の若い人達の活躍である。スポーツの分野でも、芸術の分野でも、昔と違い、その活躍は顕著である。「ゆとり」教育の賜物と言っても良いだろう。
興味ある分野の選択肢はいくつもある。10でも20でも良い。その中から、一つくらいは、自分に合ったものを見つけることが出来るだろう。おじさん、おばさん、大人達は、それを支えてやることが必要だ。「愛」さんの卓球や「真央」さんのスケートなど、涙ながらの姿が印象的だ。天才は一日にしてならず。
昔の教育は暗記が最重要だった。大学の受験もいろんな試験も暗記第一。落とし穴はそこにある。太陽系の惑星も昔は「水・金・地・火・木・土。天・海・冥」と、9惑星だったが、今では冥王星がはずれて8つ。歴史も新たな事実が発見されて大きく変わってきている。昔、暗記したことが通用しなくなっている。だが、心配しなくて良い。ネット等で検索すれば最新情報がいとも簡単に手に入る。要するに、暗記はそれほど重要ではないのだ。
従って、入社試験等も、最近は一般常識以外に、論文や、面接が重要になってきた。これは良いことだ。その人物が何に興味を持っているか?。そのことが分かれば、適材適所に配置できる。実力を大いに発揮でき、企業発展の願動力となり得る。
いかんせん、まだ日本はそこまで行っていない。だからこそ、今後は「ゆとりある教育」のさらなる拡大が必要と言うわけだ。世界に通用できるプロフェッショナルの育成こそが、今後の望まれる日本の姿であらねばならない。
「カチン、カチン」の頭となった僕には、いまさら「ゆとりある教育」は手遅れだ。別の意味での「ゆとり」が欲しい。名誉、地位、金、権力ではない。ただ、世間の縛着から逃れて、「自分探し」の旅に行く。そんなゆとりが欲しい。
それはそうと、台風26号が去った。残した爪痕は大きい。伊豆大島では20名近くの人が亡くなり、行方不明の人達も多数いるようだ。ゆゆしいことである。ただただ、お悔やみとお見舞いを申し上げたい。いくら用意周到に準備しても自然の驚異にはかなわない。受け身の立場は弱いものだ。
時々思うが、台風が発生したら、こちらから台風の目に先制攻撃をして、消滅させることは出来ないものかと。又、地震の予知が可能なら、ずれそうな断層に「つっかえ棒」を施して、断層の滑り込みを防止する。将来、科学がもっと発展すれば、これも可能になるかも知れない。ただ、厄介なことは地球も生き物であることだ。地球も言うだろう。「俺の生きる権利はどうしてくれるんだ」と。と言うことは、自然と共存共栄できる最善の方策を構築していくことしか出来ないのかも知れない。
僕もそうだが、日本人には意外と能天気なところがあるようだ。「雨が降るなら濡れていこう」。「生、来たらば生にまかせ、死、来たらば死にまかす」。いかにも風流で人生を達観しているようだが、一般人は禪坊主や仙人ではない。僕ならすぐ、洞穴にかくれたり、「死にたくないよーーー」って泣き叫ぶだろう。とりもなおさず、大自然が穏やかである事を祈り、今できる最善の方法を考えるしかない。
話しは変わるが、先日ラジオで、なるほどと思える話しを聞いた。教育に関する話しである。「ゆとりある教育」と叫ばれて久しいが、その「ゆとり」をもっと増やすべきだと、大学の先生が提言していた。マニュアル化された画一的な教育ではなく、多様化された教育を行い、プロフェッショナルな人材を育てていく。この多様性が今の日本には必要だと言っていた。
そのためには、学校の授業も午前中は、マニュアル化された教育を行ってもよいが、午後からは、個々人が興味を持っている、やりたいと思っている分野に時間をさき、その面での能力を伸ばす。小さい頃から好きなことに専念できる時間と空間を与える。かくして、いろんな分野でのプロフェッショナルが誕生し、外国との競争にも打ち勝っていける。
その端的な例が、最近の若い人達の活躍である。スポーツの分野でも、芸術の分野でも、昔と違い、その活躍は顕著である。「ゆとり」教育の賜物と言っても良いだろう。
興味ある分野の選択肢はいくつもある。10でも20でも良い。その中から、一つくらいは、自分に合ったものを見つけることが出来るだろう。おじさん、おばさん、大人達は、それを支えてやることが必要だ。「愛」さんの卓球や「真央」さんのスケートなど、涙ながらの姿が印象的だ。天才は一日にしてならず。
昔の教育は暗記が最重要だった。大学の受験もいろんな試験も暗記第一。落とし穴はそこにある。太陽系の惑星も昔は「水・金・地・火・木・土。天・海・冥」と、9惑星だったが、今では冥王星がはずれて8つ。歴史も新たな事実が発見されて大きく変わってきている。昔、暗記したことが通用しなくなっている。だが、心配しなくて良い。ネット等で検索すれば最新情報がいとも簡単に手に入る。要するに、暗記はそれほど重要ではないのだ。
従って、入社試験等も、最近は一般常識以外に、論文や、面接が重要になってきた。これは良いことだ。その人物が何に興味を持っているか?。そのことが分かれば、適材適所に配置できる。実力を大いに発揮でき、企業発展の願動力となり得る。
いかんせん、まだ日本はそこまで行っていない。だからこそ、今後は「ゆとりある教育」のさらなる拡大が必要と言うわけだ。世界に通用できるプロフェッショナルの育成こそが、今後の望まれる日本の姿であらねばならない。
「カチン、カチン」の頭となった僕には、いまさら「ゆとりある教育」は手遅れだ。別の意味での「ゆとり」が欲しい。名誉、地位、金、権力ではない。ただ、世間の縛着から逃れて、「自分探し」の旅に行く。そんなゆとりが欲しい。
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