「わからない」ことがわかった。
2013年10月19日 日常寒くなった。つい最近までは半袖だったが、今はすっかり長袖。「この程度の寒さに負けてはなるまいて」と、腕まくりしながら白々しく明けていく外を眺めた。太陽が雲に隠れている。天気が崩れると予報されていたが、どうもそのようだ。
台風27号が発生したよし。大型らしい。26号と同じようなコースをたどる可能性があるという。コースに近い地域はまたまた大変だ。「台風に魅入られた日本」。そんなニュース記事が浮かんでくる。くれぐれも、被害がないことを願いたい。
僕は水をゴクリと飲んだ。パソコンのスイッチを入れた。昨夜、ウインドウズ8.1にバージョンアップしたので、その成果を見たかったのだ。データ量が多いせいか、インストールには結構、時間がかかった。とりとめて、大きな変化はなかったが、使いやすくなったか?。というより、僕自身がまだ、機能に習熟していない為、変化に気付かないのだろう。これからおいおい勉強していくか。
ニュース、メール、日記等を読んだ。世の中は相変わらず、混沌としていて、索漠としている。目にいれたくないニュースも多い。かといって、娑婆世界の現状に無頓着という訳にもいくまい。
「ああああーーーっ、幸せとは何なのか?。人間は何の為に生きているのか?。おまえは一体、何者ぞ?」と、ふと思った。いつぞや、「国民の幸せ度」とかなんとかいう、アンケート結果がでていた。日本は5本の指に入るほどの幸せな国ではなかったようだ。以前はブータンという国は「国民が世界一幸せな国」と言われていた。最近はそうでもないらしい。というのも、近隣諸国から文明の利器やら、よからぬ物資が流入し、秩序が乱れてきたと聞いた。
いやはや、幸せとは何なのか?。心が満足している、充足している状態か?。確かに幸せ感はそうとも言える。だが、しかし、ばっと、いつも、いつも心は満足ばかりではないだろう。千々に乱れ、揺れ動くのが心だ。幸福と感じる時もあれば、不幸と感じる時もある。嬉しい時もあれば、悲しい時もある。要するに、「塞翁が馬」。僕の結論は「わかんなあーーーーい」である。人それぞれに思いは違う。それぞれに考えれば良いことだ。一義的に定義するのは難しい。
しからば、人間は何のために生きているのか?。「生きているから生きているんだ」。こう言ってしまうと、もう先へ進まない。ものの本には「宇宙、大自然から目的を持って生かされている」と書いてある。生きているんじゃなくて、生かされている。確かにそうだよなあーー。自ら望んで生まれてきたわけではないし。
生かされている目的とは何か?。進化を担うためか。確かに宇宙も、すべての万物も進化している。進化とは生成発展のことを言うのだろうか?。うんんん、分からない。進化は発展か衰退かの、どちらかだろう。人間は、そのどちらかの担い手として生かされている。そう考えることも出来る。
僕の結論はこうだ。生命体はすべて偶然から生じ、偶然に去って行く。その過程で、人間は思考することを覚えた。思考は人間の生に意味や目的を持たせようとした。「進化の担い手」という考えもそうだろう。「幸せ感」もその一貫だろう。科学や医学が発展すればするほど、その執着が強くなった。ただ、それだけの事。従って、生命体は偶然に生じ、偶然に去って行くしかない。宇宙や大自然を神と言うならば、神は生に対して目的など与えてはいない。思考が生に意味や目的を持たせようとしただけだ。現実的には、人間にとって、生に対する目的や意義があった方が生き易いことは間違いない。人間はすべからく生くべしか?。
さ、あれば、「おまえは一体何者ぞ?」。このことは以前、書いたことがあるが、面白い禅問答がある。お師匠さんが弟子に「おまえは何者ぞ?」と問うた。弟子は「わたしは〇〇村の出身の、なにがしで、家族は何人、趣味は何々、云々」と答えた。師匠は「不合格」と言った。
弟子は座禅を組みながら、あれこれと答えを考えた。思いつくとすぐ、師匠の所へ行き答えを述べたが、いつも不合格。座禅しながら考えること8年。あるとき、ふっと答えが浮かんだ。「そうだ。自分の事をあれこれ説明しても、本質を言い述べることは出来ないんだ」と。お師匠さんの前で「わかりません」と答えた。合格である。
「説似一物 則不中」。これだ。まさにこれ。何を言っても本質を言い当てることは出来ない。「わかりません」。この言葉こそ、真実を言い当てている。
従って、僕が今まで述べてきたことは本質をついていない。最終結論は「わかりません」である。「わからない」ことがわかれば、それでいいわけだ。おまんまを得る手立てを考えることが、まず先決だ。朝から頭が疲れたぜ。
台風27号が発生したよし。大型らしい。26号と同じようなコースをたどる可能性があるという。コースに近い地域はまたまた大変だ。「台風に魅入られた日本」。そんなニュース記事が浮かんでくる。くれぐれも、被害がないことを願いたい。
僕は水をゴクリと飲んだ。パソコンのスイッチを入れた。昨夜、ウインドウズ8.1にバージョンアップしたので、その成果を見たかったのだ。データ量が多いせいか、インストールには結構、時間がかかった。とりとめて、大きな変化はなかったが、使いやすくなったか?。というより、僕自身がまだ、機能に習熟していない為、変化に気付かないのだろう。これからおいおい勉強していくか。
ニュース、メール、日記等を読んだ。世の中は相変わらず、混沌としていて、索漠としている。目にいれたくないニュースも多い。かといって、娑婆世界の現状に無頓着という訳にもいくまい。
「ああああーーーっ、幸せとは何なのか?。人間は何の為に生きているのか?。おまえは一体、何者ぞ?」と、ふと思った。いつぞや、「国民の幸せ度」とかなんとかいう、アンケート結果がでていた。日本は5本の指に入るほどの幸せな国ではなかったようだ。以前はブータンという国は「国民が世界一幸せな国」と言われていた。最近はそうでもないらしい。というのも、近隣諸国から文明の利器やら、よからぬ物資が流入し、秩序が乱れてきたと聞いた。
いやはや、幸せとは何なのか?。心が満足している、充足している状態か?。確かに幸せ感はそうとも言える。だが、しかし、ばっと、いつも、いつも心は満足ばかりではないだろう。千々に乱れ、揺れ動くのが心だ。幸福と感じる時もあれば、不幸と感じる時もある。嬉しい時もあれば、悲しい時もある。要するに、「塞翁が馬」。僕の結論は「わかんなあーーーーい」である。人それぞれに思いは違う。それぞれに考えれば良いことだ。一義的に定義するのは難しい。
しからば、人間は何のために生きているのか?。「生きているから生きているんだ」。こう言ってしまうと、もう先へ進まない。ものの本には「宇宙、大自然から目的を持って生かされている」と書いてある。生きているんじゃなくて、生かされている。確かにそうだよなあーー。自ら望んで生まれてきたわけではないし。
生かされている目的とは何か?。進化を担うためか。確かに宇宙も、すべての万物も進化している。進化とは生成発展のことを言うのだろうか?。うんんん、分からない。進化は発展か衰退かの、どちらかだろう。人間は、そのどちらかの担い手として生かされている。そう考えることも出来る。
僕の結論はこうだ。生命体はすべて偶然から生じ、偶然に去って行く。その過程で、人間は思考することを覚えた。思考は人間の生に意味や目的を持たせようとした。「進化の担い手」という考えもそうだろう。「幸せ感」もその一貫だろう。科学や医学が発展すればするほど、その執着が強くなった。ただ、それだけの事。従って、生命体は偶然に生じ、偶然に去って行くしかない。宇宙や大自然を神と言うならば、神は生に対して目的など与えてはいない。思考が生に意味や目的を持たせようとしただけだ。現実的には、人間にとって、生に対する目的や意義があった方が生き易いことは間違いない。人間はすべからく生くべしか?。
さ、あれば、「おまえは一体何者ぞ?」。このことは以前、書いたことがあるが、面白い禅問答がある。お師匠さんが弟子に「おまえは何者ぞ?」と問うた。弟子は「わたしは〇〇村の出身の、なにがしで、家族は何人、趣味は何々、云々」と答えた。師匠は「不合格」と言った。
弟子は座禅を組みながら、あれこれと答えを考えた。思いつくとすぐ、師匠の所へ行き答えを述べたが、いつも不合格。座禅しながら考えること8年。あるとき、ふっと答えが浮かんだ。「そうだ。自分の事をあれこれ説明しても、本質を言い述べることは出来ないんだ」と。お師匠さんの前で「わかりません」と答えた。合格である。
「説似一物 則不中」。これだ。まさにこれ。何を言っても本質を言い当てることは出来ない。「わかりません」。この言葉こそ、真実を言い当てている。
従って、僕が今まで述べてきたことは本質をついていない。最終結論は「わかりません」である。「わからない」ことがわかれば、それでいいわけだ。おまんまを得る手立てを考えることが、まず先決だ。朝から頭が疲れたぜ。
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